正統的キリスト教が主流に戻るように祈ろう
(1)
私が読んだところによれば、父ブッシュは、他の閣僚が躊躇する中、一貫して(湾岸)戦争遂行派だったそうです。たしかにいくらかの躊躇があったのか、彼は、先輩ボーンズマンであるヘンリー・スチムソンの伝記を片手にキャンプデービッド(だったと思いますが)静養地にこもって、決意を固めたといいます。
キリスト教の牧師に相談したというのは、一つのパフォーマンスではないでしょうか。
普通の(アメリカの戦略戦争に反対する)キリスト教の側から見れば、帝国主義者と同レベルに見られるので非常に迷惑ですが。
(2)
ロバート・シューラーの教会に一度行ったことがあります。
「できると信じればできるのだ」という可能性思考は、聖書の契約的因果律の歪曲です。
聖書は、罪を犯している人まで祝福されるとは述べていません。
聖書の因果律は、「律法を守れば祝福され、破れば呪われる」というものです。
しかし、シューラーの可能性思考は、「律法への忠実・不忠実に関係なく、人間は積極的思考をすることによって成功できる」というので、「機械論的因果律」です。
つまり、「100円玉を入れれば、ジュースが自動的に出てくる」というような、ある行動を起こせば、必ずある結果が出てくるという因果律です。
ここには、神の判断は介在しません。
これは、実質的に「摂理信仰の否定」です。
聖書の摂理の教えは、「すずめ一羽すら父の御許しなしに地に落ちることはない」というもので、神は万物に対して常に能動的に関与しておられるというものです。
しかし、シューラーのように、「できると思えばできる」というのが真実ならば、神など不要です。
聖書は、はっきりと神によらずに成功も失敗もない、と教えています。
(3)
今のような反逆者の時代において、反逆者は羽振りがよい。
ブッシュにしろ、シューラーにしろ、どうしてこんな人々が・・・、と思うような人々が豊かで、聖書的クリスチャンが様々な試練に遭っている。
しかし、このような倒錯した世界を神が長い間許しつづけることもないでしょう。
クリスチャンは、本来隅っこにいるべき人々に隅っこに退いてもらうように祈るべきです。
そして、正統的なキリスト教が大手を振って歩けるように祈るべきです。
2004年2月17日
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