救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する9
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2.女性の参政権、社会進出、上司、男女平等参画社会
しかし、パウロの「キリストにあっては、男も女もありません」という言葉は、超性別的経綸を意味するのではありませんか?
そうでなければ、「キリストにあっては、ユダヤ人もギリシャ人もありません」という言葉から、超民族的経綸も導き出すことが出来なくなり、よって、異人種間の結婚の禁止の規定は、現在においても有効ということになってしまいます。
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もし、パウロが「超性別的経綸」を主張していたとすれば、「教会において女は男を教えてはならない」という言葉はそれと完全に矛盾しています。また、1コリント 11: 5−7で、パウロは、礼拝時においてかぶり物の着用について男女間に区別を行っていることを説明がつきません。
ガラテヤ3・28における「男も女もない」は、割礼派の人々に対する反論の中において「あらゆる外的差異は関係なく、『みな』信仰によって義とされる」ということを強調する中で語られたことであり、とりわけ「男性と女性の区別」について述べた個所ではありません。それゆえ、「性別に基づいた区別は新約聖書において完全に撤廃された」という原理をここから引き出すことはできません。もし性別にこだわっている個所であるならば、その他にもパウロはそのテーマについてこの書の中で触れているはずです。
しかし、ユダヤ人と異邦人の区別については、この文脈が「割礼の有無」をめぐってのことであり、民族的区別の撤廃を主張しているので、「ユダヤ人もギリシャ人もない」という言葉を、「超民族的経綸」の開始と考えることができます。この個所の直前で、パウロは、肉的ユダヤ人に属することが大切なのではなく、「信仰による人々こそアブラハムの子孫だ」(3・8)と述べています。また、「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであ」(3・14)る、と述べています。
2004年1月6日
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