有事法案の宗教活動制限条項について(再掲)
> 有事関連3法案が衆議院を通って、成立が確実になりました。富井先生は以前から有
> 事法制の必要性を説かれていましたし、私も主権国家としてそれは必要だと思ってい
> るのですが、その法案の内容については、どうあるべきかまだよくわかっておりませ
> ん。有事法制から、信教の自由を制限させる可能性を排除する必要はあるのでしょう
> か、それとも非常時にはそういうことは必要なのでしょうか。
> 首相官邸のホームページによると、政府見解として「思想、信仰に基づき、外部的
> な行為がなされた場合には、公共の福祉による制約を受けることはありうる」とあり
> ます。「外部的な行為」とは曖昧な表現ですが、当然クリスチャンが集会に集って礼
> 拝行為をすることも解釈によって含まれるようになるでしょう。ですから、現行のも
> のが決まれば、有事の際、教会の主権が国に犯される可能性があるように思います。
> 有事における国の主権と教会の主権と個人の主権の互いの関係についてどうあるで
> しょうか。そし、聖書的な有事立法というものがあるとしたら、どのようなものにな
> るのか、お時間のあるときに、教えていただけたら幸いです。
「外部的」というのは非常にあいまいですね。
こんな文言があるとは知りませんでした。
おそらく、オウムのような宗教を名乗りながら反政府的活動を行う団体などが、有事に便乗して、集合し、反政府的活動をし、敵国に利するようなことをすることを恐れているのではないでしょうか。
聖書は、有事における国家の権限を制限しています。
兵役の免除は次の人々に適用されました。すなわち、
(イ)新しい家を建てたがまだそれを奉献せず、そこに住んでもいない者。
「…新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。 」(申命記20・5)
(ロ)ぶどう畑を作ったが、そこからまだ収穫していない者。
「ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。」(申命記20・6)
(ハ)女と婚約して、まだその女と結婚していない者。
「女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」(申命記20・7)
「人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になってめとった妻を喜ばせなければならない。」(申命記24・5)
ここから学ぶことができるのは、
「軍事よりも家庭と継承を優先すべし」という原則です。
大手商社に勤めていたとき、まだ新婚なのに、(現地の大学でロシア語を習得する目的で)海外への単身赴任を命令された友人がいました。
彼は、ほとんど授業に出ず、淋しさを紛らわすために、半ばアル中になってしまいました。
おそらく「仕事の厳しさを叩き込むため」と、人事部は彼に期待していたからなのかもしれませんが、非常に非人道的だと思いました。それに、このように、新しい生活を楽しむ間もなく任務につけられると、実質的に仕事に身が入らず、会社が期待する効果はほとんど得られず、むしろ、害のほうが大きいと思います。
他社や他業種はどうか知りませんが、会社の人事は、「会社第一主義」の色彩が強く、海外駐在の場合には、まず男性社員だけが任地に赴いて何ヶ月かすごして、その後に、やっと家族を呼び寄せることができる、というのが慣習になっていました。
私が非常に嫌だったのは、夏休みを取っても、必ず一日一回は会社に連絡を入れなければならないということでした。
こういうと、会社や職場で働いている方々から、「甘いんじゃないか?」と言われそうですが、連絡を入れなければならないとしたら、精神的な休息は半減すると思います。
もし、連絡があれば、会社のほうから電話を入れればよいのであって、わざわざ社員に連絡させるという慣習は非人道的と思います。
聖書は、この点において、人間の福祉と心理を配慮していると思います。
新しく家を建てたり、ブドウ畑を作ったり、結婚したばかりの人に、その結果を味わわせないのは、酷であり、「愛の欠如」です。
また、彼らの心を「戦闘」に集中させるというのは無理な話なので、実利という点でも非現実的です。
神は、人間に自分が達成した成果を存分に味わわせようとしておられるのです。彼らが任務に集中できるには、まず、家庭において自分の欲求が充実している必要があるということをご存知であり、心残りがあると、戦争には不向きであると考えておられます。
「礼拝」とは、第一のものを第一とするという意味があり、クリスチャンにとっては最も優先しなければならないことなわけですから、たとえ有事であっても、集会を持つことを禁止することは、「越権行為」であると同時に、「非現実的」です。
人間の本質的・宗教的要求を満たすことがなければ、人間精神と霊的状態は異常になり、戦争に勝利することも不可能になります。
イエスに対してサタンは「この石をパンに変えなさい」と誘惑しました。
それに対して、イエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」といわれました。
人間を襲う本質的な誘惑は、「宗教とか心の問題なんてのは2の次で、まず、肉体や物質の必要が整わなければどうしようもないじゃないか」というような考えです。
会社が社員の休息の時間をも支配しようとしたり、国家がクリスチャンの本質的義務や欲求である「礼拝」を制限することは、背後にサタンがいるということを暗示しています。
日本社会には、このような本末転倒が随所に見られます。そのため、日本の組織はどこにおいても、メンバーを奴隷化する傾向があります。
どのような理由があれ、譲ってはならない権利というものが人間にはあります。
聖書は、このような権利を明言しており、また、人間の上に立つ権威の範囲を明確に制限しています。
2003/05/23 21:53:41
2004年2月28日
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