聖書はすべて神の霊感による
昔、学生運動がはやった頃、パウロの「権威に従え」という命令を、これは、パウロの日和見主義である、と批判する牧師がいた。これは当時の権力に対して、抵抗する力がなかったからだ、と。
しかし、このような解釈をする人は今はいない。
今は、ウーマン・リブの時代で、女性の社会的地位の向上を肯定することは例外なく「善」とされる。
もちろん、理不尽な社会的不平等は撤廃されるべきである。しかし、現代人は、男女平等を「女性が男性と同じ権威を持つこと」と誤解している。
権威とは、秩序を形成するために神が人間に与えるものである。パウロはローマ13章においてそのように述べている。
牛になろうとして無理をして死んでしまった蛙のように、本来神によってそのように造られていないものが、別のものに変わろうとするのは、間違いである。
我々は、人間として、男として、または、女として生まれるように、神によって召されたのである。だから、その割り当てられた権威で満足すべきである。
現在のウーマン・リブの時代に、聖書を読む際に注意しなければならないのは、無理に聖書をウーマン・リブが意味するような「男女平等」を述べていると考えないことだ。
我々は聖書を読む際に、何か他の権威を設定してはならない。ウーマン・リブの男女平等観は権威ではなく、『聖書が』権威なのである。ウーマン・リブにあわせて聖書を読むのではなく、聖書に合わせてウーマン・リブを考えるべきである。
聖書は、最高権威である。聖書を解釈するツールは、聖書自身である。
クリスチャンは、聖書から自分の意見を作り上げ、それを基準としてしっかりと保つことである。そして、自分の周りにある世界を解釈すべきである。こうする時にクリスチャンは、本当の預言者になれる。
「世」が基準ではなく、「聖書」が基準なのである。
「世はクリスチャンの光である」ではなく、「クリスチャンは世の光」なのである。
しかし、これまでクリスチャンは、共産主義がはやると聖書を共産主義的に解釈し、可能性思考がはやると聖書を可能性思考的に解釈し、文化人類学の相対主義がはやると、聖書を文化相対主義的に解釈してきた。
「聖書を自己完結した書物」と考えなかったためである。
聖書は、神の御言葉であり、絶対なのであるから、パウロが聖書の中において男女の権威に差をつけているならば、その見解が、どのような外部の影響を受けて形成されたかに関係なく、その言葉は絶対なのである。
もし、パウロが個人的に信じている教えが間違ったものであるならば、神はそれが聖書の中に入り込まないように思考をコントロールされたか、もしくは、入り込んだ彼の手紙を正典の中に入らないように正典編纂者の心を変えたであろう。
「聖書は神の霊感による」と言われる場合に、聖書の文言だけではなく、正典として入れるかどうかの作業に対しても、神は自らの全能の力によって、絶対的な影響を行使されたのである。
だから、我々は安心して、聖書の中に記されている見解を、神からのものと判断できるのである。
2004年1月8日
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