信条ではなく聖書をという立場の危険性
アメリカの再建主義者やその他の人々の間で、最近、「信条よりも聖書を」と言う人々が現われた。
たしかに、信条は人間が聖書から編み出したものなのだから、究極的な権威はなく、聖書を信条よりも尊重することそのものに誤りはない。我々も、究極的な権威は聖書のみであると信じている。
しかし、何でもそうだが、何かを大切にする人々は、その崇拝者になるという危険性が常に伴う。
お金は大切なものだが、お金を大切にしているうちに、お金を拝むようになる人が多い。
大切なのは、本質である。その大切にしているものの形式ではなく、それが目指している本質を重んじるのが、本当の態度である。
しかし、信条ではなく聖書を、と言う人々は、聖書の本質ではなく、聖書を尊重することそのものを神格化してしまう傾向がある。
最近のフルプレテリズムの人々には、このような傾向がある。
すでに詳しく「聖書から」述べたように、この立場は聖書そのものからも論証できない極端なものである。釈義の面においても、様々な問題を抱えており、こちらの批判に対して有効な回答は返ってこない。
それゆえ、フルプレテリズムを「聖書に忠実な立場」ということは到底できないのであるが、それをさらに異端的にしているのは、「信条は相対的で誤りを含むのだから、こだわる必要はない」とばっさり教会の遺産を否定する極端な傾向である。
もし、フルプレテリズムを本気で信じるならば、「クリスチャンの肉体の復活」「イエス・キリストの肉体的再臨」「新約時代における結婚制度の存続」すらも全面否定されるのである。
こんなバカなと読者は見られるかもしれない。いや、事実フルプレテリストたちは、このようなことをまともに信じているのである。
たしかにプレテリストの立場に立つ以外に聖書を合理的に解釈することは不可能である。しかし、同じプレテリストでも、頭に「フル」がつくか、それとも、「パーシャル」がつくかで、天と地ほどの違いが出てくるのである。
初期の教会の戦いは、「霊と肉」をめぐって争われた。ギリシャ霊肉二元論の影響を受けた仮現論者たちは、極端に肉を軽視した。
ギリシャの人々は、パウロが肉体の復活を説いたところ、彼をあざ笑った。人間の問題の根源は肉体にあるとしたのだから、肉体を強調するパウロを受け入れることはできなかった。
そこで、パウロは、はっきりと救いとは肉体の救いも含まれると主張し、復活は単なる霊的復活ではなく、肉体の復活も含まれると主張したのである。
そして、この主張は、初期の教会の仮現論との戦い、アリウス派との戦いにおいて、中心的な証拠となってきたのである。
だから、肉体の復活を説くかどうかは、異端であるか否かを判別する重要な試金石となったのである。
今、フルプレテリズムという形で、仮現論のような肉体軽視の考えがはびころうとしている。こういった教えに対して甘い顔をすれば、教会は再び泥沼の戦いのなかに放り込まれる以外にない。
フルプレテリストたちは、「信条は絶対ではない。我々は、教会の伝統からではなく、聖書そのものから論じ合おうとしているのだ」と言うが、このような発言には注意していただきたい。
そう言っているからといって、彼らが聖書から自分の正しさを証明できているわけではないのだから。
2003年10月03日
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