虚しいものに人生を浪費しないために


<hm様>

こんばんは、先生の新着情報をみて感動して返事を書きたくて送りました。本当に経験って大事ですね。やっぱり有名な神学者の著作を読んだりするのも大事ですがそれだけじゃ御言葉がわかったというのではなく御言葉が真理だという大前提にたちつつも失敗や試練がなければ御言葉が心の内に宿らないと思いました。

現在僕は就職活動中で正直忙しく、疲れてしまうこともあるんですが、しかし就活をしてる現在のほうがだらだら大学生活をおくっていた以前よりもはるかに御言葉が真理過ぎる、すごすぎる!っていう確信をもててしまいます。

又最近まで付き合っていた女性といろいろ問題があってわかれてしましまったんですがそのような失敗があって初めてイエス様の語られた言葉が本当に真理なんだ!と何度も思わされました。

先生の的確な指摘に感謝しつつ喜びを伝えたくて送りました。富井先生に主の働きが永遠にありますように。アーメン

<tomi>

感謝します。

そうですね。御言葉は、体験を通じてでなければ身にはつきにくいと思います。

社会に出て、御言葉と現実の折り合いをつけられるようになるには、いろいろと困難があるでしょうが、必ず主が道を開いてくださるのでがんばってください。

話は違うかもしれませんが、私は、学校時代、勉強をすれば成績が伸びる、それも、ほぼ完璧な成績を収めることができる、そういうやり方をマスターしたと思える時期がありました。

そのため、社会に出てからも、その方法をマスターすれば、必ず成績を上げていける、と確信していましたが、会社に入って思ったのは、自分の努力だけではなく、人間と人間のかかわり、組織の要求という制限がかかってくるので大変だ、ということです。

勉強は自分のペースで何とでもなりますが、組織で仕事をする会社の仕事はまったく違った能力が要求されます。

学生時代と違う点はこの部分だと思います。

私の場合は、不思議なことに、「努力すれば何とでもなる」という信念を徹底して砕かれました。

最初から、ちょっと特別な人事の計画の中に置かれていて、同期の新入社員が実務経験を積める時期に、いろんな研修をさせられ、また、海外に1年も派遣されたために、実務の仕事をはじめるのが非常に遅れました。

帰国して困ったのは、同期の人がそれなりの経験を積んでいるのに、私はまだまったく実務を体験していないため、出遅れてたことでした。現場では、人事部の計画をあまり評価してくれません。現場の成績は、もっぱら実務能力に置かれているので、私が受けた研修は評価されず、低い評価だけが残りました。「まだ、こんなことも知らないのか?」と。

そういったハンディをその他にも次々と背負わされ、自分の一存で何かできるなどという考えは吹っ飛びました。

まあ、自信を完全に奪うことが神様の計画だったのでしょう。恐らく。

今の私の考えは、「神様の道は、人間の道とはまったく違う」ということです。

ある意味で、人間的な常識などまったく通用しない世界が聖書の世界だと思います。

恐らく、預言者として選ばれた旧約の人々は、自分でもまったく何がなんだかわからないところに連れて行かれて、自分の思いとか計画、努力がまったく通用しない、たえず右、左と揺り動かされ、自我というものを徹底してあきらめさせられる経験をしたと思います。

モーセは、イスラエルの民を奴隷から救い出したいという願いを神から与えられました。

しかし、じゃあ、神がそのモーセをイスラエルのところにすぐに連れて行かれたかというとそうではありませんでした。

モーセが自力でイスラエルを救おうとしましたが、救うどころか、逆に、エジプトの看守を殺してしまうという失敗を犯してしまいました。

その後、無駄とも思える40年間を荒野で羊飼いとして過ごしました。

燃える柴のところに呼び出され、使命を与えられた時、彼は、すっかり自信を失っていました。

「イスラエルを救い出せ」と神から命令されたとき、「私は口下手で無理です。」と答えました。


これが神様のやり方だと思います。

自分の人間的計画を徹底して破壊され、自分の意志、努力などを徹底してあきらさせられるまで、私たちは、神様の御用には役立たないのだと思います。


私は、憑依ということに関心があります。

サタンは、人間のすべてを乗っ取ることを目指しています。霊とは、人間の肉体を占領しようとしています。

そのためにサタンが用いる方法は、小さな罪を犯させることです。小さな罪に慣れると、すこしずつ大きな罪を犯させて、最後には罪以外できなくさせようとしています。

これが、サタンと契約を結んだ人の末路です。

聖書では、「御霊に満たされなさい」と勧めていますが、これは、「神の御霊によって完全に支配されなさい」と同義です。

神は、私たちの肉体を御霊によって占領されることを望んでおられます。

そのために、神は私たちの自我を徹底してつぶすことを望んでおられると思います。


聖書は、「聖書啓示から認識を出発させなさい」と命令していますが、自我を徹底して砕かれない限り、この立場に立つことは不可能でしょう。クリスチャンホームで育ち、このような思考方法に小さい時からなれている人は別ですが、世俗の教育を受け、世俗の思考方法を身につけた人がこのことを悟るには大きな挫折を何度も繰り返さねばなりません。

人間の頭で考えたものが、いかに愚かであるか徹底して悟るには、大きな失敗を何度も繰り返さねばならないと思います。


人間的な考えが半分入ったような教えで成功している牧師は、恐らくそれだけの使命しか与えられていないのだと思います。もし、本当に神が用いようとされているならば、人間の意見が半分入っていたり、世俗の心理学や経営学などに影響されたキリスト教神学などをほうじる時に、彼を大失敗に導かれるでしょう。

ですから、私は、何が成功で、何が失敗であるかは、そう簡単に決めることはできないと思います。

教会成長学などの影響で、百人教会、千人教会などを作ることを目指して、成功している人は、恐らく、それだけの役割しか与えられていないのだと思います。

人間的なものが混じった教えで成功することは、むしろ、それ以上の深い真理を悟ることができないため、不幸だと思います。

私は、自分の人生を、そのような虚しいもののために浪費したくありません。

神が私たちの目を開いて、真理を見つめさせてくださるよう、そして、虚しいものに目を留めることがないよう願っています。

 

 

2004年2月29日

 

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