神学の賜物
律法と福音の問題は、かなり難しいのは事実。
というのも、パウロは非常に誤解を持たれるような書き方をしているので。
そこで、読者である我々は、聖書全体をまんべんなく調べて、総合的に律法の役割を調べなければならない。
ある意味で、聖書というのは、「分かりにくい書物」なんです。
聖書は誰でも読める、っていうのは、ウソ。
なにせ2000年前の古典ですから。
昔の人は、今日のように商業的な動機で本を書かないから、読者のことをあまり考えないということもあるし、また、「手紙」の形式になると、筆者と読者との間の「暗黙の了解」というものも含まれるので、非常に分かりにくくなります。
これは、日本の古典で「日記文学」などに通じている人ならおわかりと思います。
登場人物、人間関係、土地など、背景知識がきちんとしてないと読めません。
聖書の場合、その上、旧約聖書の黙示文学の書き方が新約聖書にもあって、「天が巻物のように巻かれて」とか「星が落ちてきた」とか、文字通り受け取ることができない表現もある。
そのため、牧師は、よほど熱心に勉強しないと、信徒に正しい知識を与えることはできない。
神学校を卒業してから、かれこれ16年になります。大学時代もかなり神学を勉強して問題意識を持っていたので、20年くらい、考えに考えてきた。
だから、「律法と福音」について、「律法=奴隷」対「福音=自由」とか、「旧約聖書=怒りの神」対「新約聖書=愛の神」などという単純な分け方をされると、「あ〜」って、力が抜けるんです。
そんな簡単なら神学者は苦労しませんって。
はっきり言いましょうか。この世界にも、玄人ってのがいるんです。
そして、それは、「苦労人」とも書く。聖書の問題については、人の何倍も苦労して頭ひねって考えているんです。
どの商売にも言えることですが、神学ってのはセンスが必要。
神の賜物の中に、「神学の賜物」というのもあると思いますが。
2004年2月24日
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