大学で何を学ぶか?
日本の大学は入る時は難しいが、出るのは簡単である。理系の大学を除けば、それほど苦労しなくても卒業できる。
最近アメリカの大学と比べて、批判されることが多いのだが、私はこのシステムを完全に否定するつもりはない。というのも、大学というところは、高校や専門学校とは違って、「ものの考え方の基礎を学ぶ場所」だと思うからだ。
大学も、高校や専門学校と一緒になって宿題宿題で学生を追いつめると、頭をからっぽにした状態で、一からものを考えることは難しい。
高校の勉強だけだと、教科書に書いてあることを絶対だと誤解する恐れがある。
大学の授業は、「こういう説もあるが、こういう説もある」というだけで、学生に結論を教えない。学生に向かって「これだけが真理だ。これに歩め。」などとは言わない。
これは、入学したばかりの学生たちを当惑させる。なぜならば、受験に成功するために、学生は、教科書や受験に必要な知識を絶対視してきたからだ。
大学の勉強は高校の勉強の延長線上にあり、真理を教えてくれるなどと考えたら、肩透かしを食らう。
大学の先生とは、「これは、『今のところ』正しいと考えられている学説です」と紹介する人でしかない。
ある意味で学者とは「知識の限界」を踏まえた謙遜な人であるべきだ。
科学的知識は、常に「暫定的」である。「これこそ絶対です」ということは、経験科学の定義からみて不可能であり、越権である。経験科学は、「経験によらない一切のドグマを排する」ということを前提としつつ知識を求める立場である。人間の経験は有限であるから、知識は常に反証を受ける可能性がある。
大学でしか学ぶことができず、高校では学べない最も重要な部分はこの「知的謙遜」だと思う。
世の科学者がもしこの立場を徹底して貫けば、キリスト教を否定することなどできるはずがない。科学は世界観ではないが、キリスト教は世界観である。それゆえ、科学はキリスト教を否定できない。
科学は経験的帰納法的認識論に基づいて得られた知識を扱うが、世界観は、経験や帰納法によらずに、ドグマや直感や演繹的認識論に基づいて得られる知識を扱う。
科学がキリスト教などの宗教を批判した瞬間に、それは科学であることを止める。なぜならば、その科学は、科学が扱えない問題に口をさしはさんだからである。
たとえば、「処女降誕などこの世に存在するはずはない。男女の性的営みを経ずに妊娠するはずがない。」と言う時に、その科学者は、「自分の持っている生物学的知識はいつでもどこでも通用する普遍的ドグマであり、反証不可能である」と宣言したことになるのだ。
理系出身者に、このような科学の限界を無視する人が多いのは、大学に入って、実験とレポート提出に追われ、「科学とは何か」「宗教とは何か」「人間は何を知ることができるか」という哲学的な問題について考える余裕がなかったからと思われる。
彼らがキリスト教を否定する時に、彼らは、自分自身が宗教者になっていることに気付かない。彼らは、「科学」を唱えているのではなく、「科学教」を唱えているのだ。
彼らは、科学の細かい知識についてはエキスパートかもしれないが、科学そのものについては何も知らない。
こういった誤解が、教育の世界に侵入して、「宗教対科学」のような陳腐な図式を生徒たちに教え、「宗教を信じることは科学を否定することだ」という今日の一般的誤解を生み出している。
大学で得られる知識などたかが知れている。大学で学ばねばならないのは、些末な知識を頭に詰め込むことではなく、「ものの考え方」を学ぶことだ。つまり、厳密に思考することを通じて、知的な謙遜を養うことだ。
そのためには、大学で優れた友人と出会うことは重要である。優れた人は、専門以外の一般教養を身に付けるためによく読書をしている。読書を通じて思考の幅を広げているから、専門バカにならない。
そして、そのような人は、歴史や哲学などにも通じているだろうから、専門バカに陥っている人々に歴史的哲学的思考方法を教え、実験ばかりやっている人々に広い世界を見せてくれる。これらの人々と対話することによって、教養人の常識というものが見えてくる。
教師や友人などの影響を受けて、世界を総合的に広い視野に立って見ることができるようにならなければ、大学に入る意味はない。そのような知識は、専門学校で十分学べるから。
私は、大学で得た最大の利益は、優秀な友人であった。彼らとの対話は金では買えない価値があったと考えている。
2004年3月13日
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