旧約律法を霊的に解き明かせ
人間の基本的な問題は、「法」をめぐるものである。
エデンの園における誘惑は、法に関するものであった。
「善悪の知識の木」から取って食べるなという命令は、「人間が勝手に善と悪を区別してはならない」ということを意味していた。
サタンは、エバに「それを食べるときに、あなたがたの目は開けて、神のように善と悪を区別できるようになります」と言った。
これこそが、人類に対するサタンの誘惑の本質である。
つまり、「自分勝手に道徳を作らせる」ことにある。
それ以来、堕落した人間は、聖書啓示によらずに、自分の判断で、善と悪を決定してきた。
法の基礎は、道徳にある。法律は、何が善であり、何が悪であるかを決定するからである。
それゆえ、今日、教会が旧約聖書をあたかも「古く廃れた本」であるかのように誤解し、旧約律法を拒絶しているのは、サタンの罠にはまったからである。
旧約聖書は、意味から考えるならば、"Old" Testament ではなく、"Older" Testamentである。
旧い聖書ではなく、新約聖書「よりも旧い」聖書である。
事実、グレッグ・バーンセンは、旧約聖書のことをOlder Testamentと呼んでいる。
旧約聖書も「霊感された書物」であり、神が著者である無謬の啓示である。
我々は、奴隷制度も、男女の性差も、何もかも、旧約聖書は有効であり、我々に対して権威として留まっていることを再確認しなければならない。
たしかに、奴隷制度など、食物規定と同じように、キリストという本体が現われたために、霊的に解釈すべきであり、そのまま現代の生活に適用できないものもある。
しかし、それは、形を変えて我々にとって依然として権威として残っていることを認めなければならない。
奴隷制度から我々は、何を学べるか?と考えなければならない。
奴隷制度は、クリスチャンが罪からの自由人で、ノンクリスチャンは罪の奴隷であることを象徴しているのだ。
教会の牧師は、奴隷に関する記述をすべて闇に葬り去ったり、無視するのではなく、そこから、新約時代に生活する我々にとっての教訓として、積極的に講壇から解説すべきだ。
旧約律法における奴隷の男女にある差、イスラエル人奴隷と異邦人奴隷との間の違い、奴隷の権利、相続、自発的奴隷など、様々な記述が旧約聖書にある。
これらの細かい規定は、もちろん、神の御心なのだから、そこから、我々は、霊的な教訓を学ぶことができるはずだ。
ヒューマニズムの法が、社会を破壊し、混乱に陥れている今、教会は、旧約律法を基礎とした決疑論を復活させるべき時だ。
旧約律法を通じて存在する神の世界観を学ぶべき時だ。
旧約律法には、膨大な真理が隠されている。
それを新約の目をもって、霊的に解き明かすべき時が来た。
2004年1月10日
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