フルプレテリズムの課題2


<T師>

フル・プレテリストはセオノミスト、またはキリスト教再建主義者でありえますか?
セオノミストはマタイ5章17節によってその考えを支えています。しかし、フル・プレテリストは天地は過ぎ去ったと信じています。ですから、フル・プレテリストとしてこのセオノミーの考えをマタイ5章17節から支持することはできません。しかし、エレミヤ31章33節では、新しい契約は新しい契約の民の心 の中に神の律法を置くことであると言いますから、神の律法は外側からではなく、内側から有効に働くと思います。これはクリスチャンは無律法主義者にはなれないこと、セオノミストであることを意味するのではないかと思います。どのようにお考えですか?


<B師>
セオノミストは今日の私たちの世界における教会に関して言えば、律法に関するしっかりした合法的・契約的概念を発展させることでキリスト教界のためにすばらしいことをなして来ました。ところが、彼らはマタイ5章17節を間違って適用しています。モーセの律法的契約は単に、儀式律法だけではなく、完全に廃棄されました(へブル7:11〜19)。しかしセオノミストにとっての良い知らせは古いモーセ契約の代わりとなったキリストの新しい契約は、少しの修正はあるものの、実際には神がモーセを通して啓示されたことがらの修正版だということです。

(1)モーセ律法における申命記27章26節の呪いはキリストの合法的システムの下で、神の民のために廃棄されました(ガラテヤ3:10〜13)。
(2)儀式や神殿の儀式は除かれました(コロサイ2:14〜17、エペソ2:14〜18、マタイ12:1〜7、マルコ7:14,15、ヨハネ4:21〜23)。
(3)モーセを通して与えられた神の律法の原則と精神は、適用され、完全に遵守されるべきです。そしてそれはモーセ律法の文字だけを無理やりに適用するということではありません(2コリント3:6、1テモテ1:8〜10、ローマ8:4、2:13)。
そして、
(4)申命記6章5節とレビ記19章18節はそこからすべての司法的遵守が導かれるところのモーセ律法の最も偉大な2つの戒めです(ルカ10:27)。
ですから、キリストの新しい契約の律法(1コリント9:21、ガラテヤ6:2)は古いモーセ律法のシステムの修正版であり、それは始めにモーセを通して成文化された神の律法によってどのように生きるべきかの正しい教えを提起します。

<tomi>
(T)
この(1)〜(4)は、問題はありません。
ここで、バーカー氏は、モーセ律法の無効を述べているのではなく、キリストにあって、モーセ律法の新しい守り方があるのだ、と述べているに過ぎません。

この点は非常に重要です。

T師の「神の律法は外側からではなく、内側から有効に働く」というご意見は、恐らくフルプレテリズムの見解ではないか、それともB師がフルプレテリズムの中で特異であるのかどちらかでしょうが、T師の見解を発展させていけば、究極のところ、聖書啓示を前提とする前提主義の立場からの乖離が起こると思われます。

人間が神の御心を知るのは、「聖書啓示からの外的啓示」と「聖霊の内的啓示」のワンセットが揃っている必要があります。

今日、霊を重視する人々は、「聖霊に導かれれば大丈夫」と考える傾向がありますが、霊だけの啓示は非常に危険であり、聖書によって裏づけのない預言や幻は異端やカルトにつながります。

ですから、私は、「律法は廃棄された」と唱えるいかなる説にも賛成できないという立場を取りたいと思います。

(U)
それゆえ、B師の「モーセの律法的契約は単に、儀式律法だけではなく、完全に廃棄されました(へブル7:11〜19)。」という発言には賛同できかねます。

ヘブル7:11〜19を見てみましょう。

「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、――民はそれを基礎として律法を与えられたのです。――それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。
私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。
もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。
その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、――律法は何事も全うしなかったのです。――他方で、さらにすぐれた希望が導きれられました。私たちはこれによって神に近づくのです。」

ここにおいて言われているのは、動物による犠牲制度の失敗と、キリストの犠牲の成功に関してであって、律法制度全体の廃棄について述べてはいません。

ここでパウロが言いたいのは、「動物の犠牲制度では、人間の罪を贖うことができなかったが、キリストの犠牲はそうではなかった。だから、動物の犠牲制度は不要なので廃棄された。」ということだけです。律法の戒め全体について語った個所ではありません。

もし、律法の戒め全体が廃棄されたとパウロが主張したとすれば、パウロは完全に内的分裂を起こしています。
なぜならば、パウロは「信仰は律法を廃棄せず、むしろ、それを確立する」とはっきりとローマ書で述べているからです。

パウロがもろもろの手紙で述べているのは、「律法そのものは廃棄された」ということではなく、「律法の中の動物犠牲制度は廃棄された」ということでしかありません。パウロの書き方は整理され体系だっているとは言えないため、このような誤解がずっと生まれてきました。

このヘブル書で議論されているのは、旧約律法の「型的性質」は廃棄されたということなのです。実体が現われたら型は不要です。自分の子供が小さい時にフェラーリの実物を与える親はいません。しかし、成人した子供に、ミニカーを与える親もいません。
実物があれば、ミニカーは不要です。
ヘブル書においてパウロが一貫して主張しているのは、キリストという実体が現われたので、モデルであるレビ的祭司制度、犠牲制度は不要となったのだ、ということです。

 

 

2004年2月21日

 

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