聖書から出発することは盲信ではない
聖書は正しいという前提から出発せよ、というと、「それは盲信じゃないのか?」と人々は言うかもしれない。
しかし、人間はどこかで「盲信」しなければやっていけない。
たとえば、このように我々を批判する人々だって、「自分の理性で科学的に探求することが最善だ」と「勝手に」信じているので、「盲信者」なのである。
どうして「人間理性」を信じられるのか?どうして「科学的探究が最善だ」と言えるのか?彼らはこういった近代ヒューマニズムが依存する実証的認識論に対して疑いを抱かずに論を進める「盲信者」である。
このHPでは繰り返して主張してきたことだが、このような「理性絶対論」は、近代ヒューマニズム自身が否定しているのだ。人間理性を究極と置くことには合法性はない、と彼ら自身認めている。
デカルトはこのようなオメデタイ信頼を理性に対して寄せていた。しかし、イギリス経験論や懐疑論は、これが幻想であることを徹底して明らかにしたのだ。それ以来、「これが絶対の認識方法だ」などということは誰も言えなくなっているのだ。
では、なぜ人々は、あたかも「人間理性を究極の判断主体」と考えているのだろうか。それは、「こう仮定しなければ、何も知ることができなくなる」からだ。
たとえば、死後の世界について、科学は無力である。どんなに実験しても、死後の世界は知りえない。仮に霊媒師が死んだ人の霊を呼び出して死後の世界を教えたとしても、それが本当に死後の世界の様子なのかどうか、証明できない。
また、意味の世界もそうだ。目の前にある美しい花に関して、生態を調べたり、構成元素を調べることはできても、「意味」について知ることはできない。誰かが、「この花が存在する意味はこれこれだ」と言っても、それが本当の意味かどうか誰もわからない。科学的手法によってその学説を証明できない。
だから、意味の世界、本体の世界、現象以外の世界については、人間は沈黙せざるを得ない。ここで限界が生じた。
今、科学の世界が信じている認識論とは、「とりあえず今わかっていることを暫定的な真理としよう。後でさらにそれを否定するような事実が出てくるかもしれないが。」というところで妥協しているのだ。
だから、「これこそ絶対的真理だ」などとは言えない。人間の認識能力が限られている以上、「絶対」などということはできない、というのだ。
それゆえ、彼らは我々の「聖書から出発しよう」という認識論を批判できない。「いやいや、何かのドグマから出発するというのは、おかしいんじゃないか」と言われても、「あなたがただって、『人間理性を究極の判断主体とする』というドグマから出発しているじゃないですか。その判断主体が常に正しい意見を出せるという保証でもあるのですか?」と反論されてしまう。
実際、聖書は「人間の認識力は歪んでいる」と述べている。
「汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。」(テトス1・15)
「ノンクリスチャンは、知性が汚れている」というのだ。
「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ4・18)
「ノンクリスチャンは、知性において暗愚」なのだ。
このような知性にどうして信頼が置けるだろうか。
我々は、彼らの「汚れた、暗い」知性に信頼してはならない。
彼らの誘い水に乗って、「じゃあ、聖書は正しいということすら疑ってかかることにしましょう。そこから出発しましょう」などと言ってはならない。
その誘いに乗った時点で、我々は「信仰を否定した」のである。
聖書よりも、「汚れた、暗い」知性に依存したのである。
我々クリスチャンは、「神のことばは、すべて純粋。」(箴言30・5)と言われているのだから、神のことばから出発すべきだ。
2003年11月28日
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