クリスチャンはまな板の上の鯉である

 

人間は、神の奴隷になるか、サタンの奴隷になるか、どちらかしかない。

ノンクリスチャンは、サタンの奴隷である。だから、どうしても、福音を受け入れられない。そして、神の意志に従えない。

クリスチャンになると、全生涯は、神の言いなりになる。

自分の計画など通用しない。

思わぬことに遭遇し、思わぬ道に導かれ、思わぬ人と会う。

自分が思ったこととまったく違う事態が次々とやってくる。

これは、弟子達を見てもわかるだろう。

弟子達は、霊的な世界の原理が分からないから、イエスが「私は十字架にかかって死ぬ」と言われた時に、「そんなことがあるはずがありません」と言った。

弟子達の知恵は、人間の知恵であり、人間的なストーリーを勝手に作っていた。すなわち、イエスは、イスラエルの王となり、ローマを打ち破り、イスラエル民族を栄光と権力に導いてくれるはずだ、と。

しかし、神は、このような人間のストーリーを打ち砕かれた。イエスはあっさりと十字架についたのだ。

我々は人間の浅知恵で、自分勝手なストーリーを考え出すが、神は、ご自身が絶対主権者であることを我々に悟らせるために、そのようなストーリーをめちゃくちゃに破壊する。

人間が思いもよらぬ方法を使ったり、思いもよらぬ結果をもたらされる。

だから、クリスチャンは、本質的に、計画というものを立てられない。常に神によって変更を余儀なくされるからだ。

伝道してもなかなか実が結ばないと、「やり方が悪い」とか「そのミニストリーは間違っているのではないか」と指摘する人々がいる。

しかし、彼らは、「神は人間の計画を裏切られる」という原則を知らないのだ。

クリスチャンは、神の奴隷である。奴隷ということは、自分の計画を捨てて、神の計画に合わせるということを意味するのだ。

我々は、キリストにあって自由人である。しかし、これは、「我々は自分の計画を立てて、自分の道を歩む権利が与えられた」ということを意味しない。

モーセに率いられたイスラエルが、火の柱と雲の柱に導かれたように、我々も、神の導きと計画に従って歩む以外にはないのだ。

だから、結果を急いではならない。自分がやった仕事が実を結ばなくても、それは、神の計画なのだから、忍耐して待つ以外にはないのだ。

今、自分が失敗してみじめな姿になったとしても、思わぬ妨害によって計画が頓挫しても、それは、神がそうされたのだから、あせる必要はないのだ。

我々は、ただ、火の柱、雲の柱についていけばよいのだ。

結果は、神に委ねるべきだ。

1999年までに日本の一千万の魂を救おう、という運動をやった人がいたが、一千万人救われるかどうかなど誰も知らないのだ。

神は、人間が傲慢にならないように、また神をナメることのないように、人間の計画を挫折させられるのだ。

40歳の時に、モーセは自分の計画を立てて、イスラエルを救おうとした。しかし、逆に彼は、エジプトの看守を殺してしまったのである。良いことをしようとしたのに、逆に人殺しをしてしまった。

その後、40年間、ただ羊飼いとして無為とも思える生活を強いられるなかで、彼は、自我を砕かれて、神の一方的な計画に従えるようになった。

モーセは、80歳になるまで、神に用いられる人間ではなかったわけだ。

我々が、気にすべきは、神の御国建設の具体的なプロセスではなく、毎日与えられた小さな仕事をきちんとこなすことである。そうすれば、神はその小さな仕事を用い、それを神の大きな計画の中の一つの歯車として用いてくださるのである。

全体的な計画について心配するのは神だけでよいのだ。

大きな計画に関して、我々は、川を流れるボートの上に乗って、ただ流されていればよいのだ。

我々の仕事は、ボートの中に座って網を作ることであるかもしれない。または、その網を水辺に投げて魚をとることであるかもしれない。

我々がこれからどういう過程で河口までたどり着くかなど心配する必要はない。

自分の教会を千人教会にする必要もないし、自分の名を売って、キリスト教界で大物になる必要もない。

自分に与えられた人々、自分の仕事、持ち場に集中すればよいのだ。

クリスチャンは、神の奴隷であり、神によって料理されるまな板の上の鯉だ。

煮て食われるか、焼いて食われるかは、神の一存で決まる。自分を投げ出して、神の計画にすべて委ねる時に、神は、我々を用いて何かすばらしいことを成し遂げてくださるのだ。




 

 

2003年10月14日

 

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