霊に関心を寄せることの危険性について
E・M・バウンズの『祈りの力』という本を昔読んで感動したが、今考えるとかなりおかしいことに気づく。この本は、聖霊によって語ることを強調している。
しかし、聖霊によって語ることが重要であるのは事実だが、「御霊に満たされて語らない御言葉は人を殺す言葉である」とか、「霊において整えられていないとリバイバルは起こらない」などという教えは、言い過ぎであり、聖書のうちにはない。
聖書が強調していないことをことさらに強調することは、異端ではないにしても、正しいことではない。
霊に満たされた言葉に力があるのは事実である。
「しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。」(使徒6・10)
しかし、聖書は、霊に満たされる状態を、何か「ぐっと来る」とか、「聖霊のパワーを感じる」などという、特別な霊の現象や状態と見ていない。
「イエスは主である」という人は例外なく、霊によって語っていると聖書は述べているのである。
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(1コリント12・3)
聖書は、聖霊の働きを、「これこれのレベル以上の霊の働きはOK」、「それ以下はNO」というような評価基準で区別していないのである。
聖書は、「イエスは主である」と告白する人々には例外なく御霊の働きがあると言っているだけである。
聖霊を強調する団体のある先生と話していて感じたのは、この団体は、「霊によって語っているからあの先生のメッセージはすばらしい」とか「霊の満たしがあったので、この集会は恵まれた」というような評価の仕方をする傾向があるということである。
この背後には、「経験中心主義」があるのである。
ロックコンサートに行って興奮するような、日常とかけ離れたスリリングな実存的経験を信仰生活の中心に置くのは、異端ではないにしても、不健全である。
このようなスリリングな体験の次に、サタンは似たようなスリリングな経験を次々と提示して、クリスチャンを「経験依存症」に変えようとしているのである。これは、一種の薬物中毒と同じである。
「経験依存症」になった人々は、聖書啓示よりも、「ぐっとくる体験」や「恍惚体験」を重視するため、聖書を学ばない傾向がある。
御霊の力を求め、それを尊重することそのものは間違いではないが、聖書の学びを軽んじるならば、それは堕落への道であるから注意が必要だ。
聖霊を重視する運動の盛り上がりと、ニューエイジの体験主義とは、密接な関係があり、どちらも「反理性主義的」である。
理性を重視せず、聖書の正統的な教理を重視しない霊の運動は、きわめて危険である。
霊によって預言する人々を見れば分かるように、彼らの預言は知らず知らずのうちに、神の言葉から悪霊の言葉に切り替わるのである。これは、よほど注意しないと分からないほどに巧妙である。
霊媒体質の人々(女性に多い)は、それまで聖書的なことを述べていたかと思うと、突然、まったくサタンの言葉としか思えないことを言い出すのを幾度となく体験してきた。
アメリカのある女性が地獄の体験記を出版した。聖霊を重視する人々によって広く読まれ、「地獄が本当に存在することがわかった」とクリスチャンの間で好意的な評価を得ていたのであるが、私は、この本はまさしく「占いの本」だと思った。
地獄については、聖書以外に我々は知るすべがない。来世について、未来については、神が現されたこと以外に知るべきではない。神の方法によらない来世についての知識は、占いの知識である。その本の中に、「イエスが現れて、大患難時代が近づいている」と語ったという。これだけ見ても、著者がウソをついているか、悪霊に騙されているのは明らかではないか。聖書のどこに大患難時代が未来に起こると書いてあるだろうか。
霊の世界は、コインの裏表のようなもので、それまで御使いだったものが突然パッと、悪霊に変わるほど微妙な世界だと思う。
それゆえ、クリスチャンは、このような世界を自分の関心の中心に置くべきではないと考えるのである。霊の知識を得ることに関心を向けるよりも、あくまでも、聖書を勉強し、地を従えるための健全かつ確実な知識を身に付けるほうが重要だと思うのである。
2003年05月06日
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