『福音と世界』(2003年12月号)栗林輝夫氏のエッセイ「宗教右翼は神国アメリカをめざす――統治の神学、キリスト教再建主義、セオノミー」への反論5

 


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そして聖書の言葉は絶対で、そこに疑問の余地はないとする前提主義(Presuppositionalism)に立って、人には絶対服従がふさわしい、不服従者に地上に居場所はないと切り捨てた。

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「聖書の言葉は絶対で、そこに疑問の余地はないとする」のを前提主義とは言わない。

神の言葉は絶対であるとは、前提主義者でなくても、普通のディスペンセーショナリズムのクリスチャンでも信じている。

前提主義とは、そのような漠然とした言葉ではなく、もっと認識論に焦点を絞った言葉であり、「思考の出発点を三位一体の神とその御言葉である聖書に置く」と主張する立場である。

リベラリズムは、三位一体神とその御言葉である聖書を出発点とするのではなく、人間の認識能力を信頼し、それに聖書そのものをも批判できる権限を与え、そこを出発点として万物を認識しようとする。

これは、実質的に、ヒューマニズムである。

聖書すらも批評して、人間が聖書の教えのどの部分でも取捨選択できるとするのであるから、当然のことながら、この立場は「人間の教え」を超えることができない。

「私は、これを信じられない」という一言で、聖書のページを破り捨て、自分の考えに合わない部分に墨を塗ることが許されるわけだから、自分の悟りを超えることはできない。

当然のことながら、このような認識論を採用して得られる宗教とは、「自分教」以上のものにならない。リベラリズムが作り出す礼拝とは、「自分が好ましいと思う姿の神=偶像」への礼拝である。

レズビアンのリベラリストが拝む神とは、聖書に書かれてあるとおりの神ではなく、レズビアンを認めるように改造された神である。この「神」は、レズビアンに向かって、絶対に「レズをやめなさい」とは言わない。結局、リベラリズムの神とは、「人間を裁かない神」である。

リベラリズムの神は人気がある。

しかし、人間はそんなにアホではないから、この人気も一時的であり、いずれ人間は彼を蔑むようになる。マトモな人間がどうして自分の言いなりになるシュガーダディ神など尊敬しつづけることができるだろう?

教えに深みのないそんな宗教のもとに、試練によって鍛え上げられたホンモノが集まるはずがない。

聖書を絶対の基準としない認識論に基づく「キリスト教」は、キリスト教ではなく、別の宗教なのだ。

だから、ヴァン・ティルは、キリスト教がキリスト教であるためには、聖書以前から出発するのではなく、聖書から出発し、聖書を基準として丸ごと受け入れる必要があると考えた。

そして、聖書そのものがそのようにせよ、と命じている。

「神のことばは、すべて純粋。…神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」(箴言30・5-6)

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40・8)

「また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示録22・19)

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1・8-9)

聖書にハサミを入れたり、糊で新しいページを加えたり、書き込みを入れる者は、のろわれるべきだ。

 

 

2003年12月8日

 

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