諸国民の弟子化への道
イエスは、弟子たちに、世界のすべての国民を弟子とせよ、と命じられた。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28・19)
諸国民の弟子化への道を下記に図示する。
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(1)
聖書が教える神の覇権拡大の方法は、「伝道と教育」のみである。
我々に与えられているのは、「御言葉の剣」だけである。
「…御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6・17)
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4・12)
武力を用いる者は、武力によって滅びる。
「…そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエスは彼に言われた。『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。』」(マタイ26・50-52)
伝道と教育によって、福音は諸国民を変え、聖霊は非常に多くの人々を回心に導き、心が神と和解し、神に喜んで服従するようになる。
(2)
国民の圧倒的大多数になった時に、彼らは聖書に基づいてすべての制度を変えようとし、その国の法律をすべて聖書に基づかせようとする。
なぜならば、神の御心は、あらゆる事柄を神の栄光のために行おうとするからである。
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(1コリント10・31)
まだ国民の大多数が宗教的多元主義を喜んでいる未熟な状態において、無理やり聖書的法律を押し付けることはできない。
神の御心はあくまでも「自発的回心」である。
しかし、国民の圧倒的大多数が回心し、神の深い愛を知るならば、彼らは喜んで聖書を受け入れ、聖書的なものが最善であると悟るようになる。
この時、真に制度的改革の機が熟したと言える。
人々は、様々な悪を許容し、無秩序化に歯止めを掛けることができないヒューマニズムの相対主義的体制を嫌悪し、聖書法を、人間解放の「理に適った法」であると認め、その体制を崩したくないと考えるようになる。
(3)
聖書の神を主権者とする国家が誕生し、ヒューマニズムや異教や異端の体制への嫌悪から、宗教的多元主義への逆行を防ごうとする。「聖書に基づく」宗教的不寛容が制度化される。(*)(**)
(4)
生活と思想のあらゆる局面が聖書的になった時に、「諸国民の弟子化」は完了する。(***)
(*)
今日、「宗教的不寛容」と聞くと、「異端審問」「魔女裁判」を連想するだろうが、聖書的な不寛容は、中世ヨーロッパのそれとはまったく異なる。中世ヨーロッパの宗教的不寛容は、聖書に対する違反というよりも、「教皇制」という人造宗教に対する不寛容であった。我々は、いかなる人造の権威も絶対化することを拒否する。
(**)
我々が宗教的寛容を評価しているのは、現在の体制が宗教的寛容だと誤解しているからである。オウム事件、共産革命などを見ても分かるとおり、宗教を無制限に自由化することは、どの体制においてもできない。宗教の本質は、「主権の主張」にあり、革命的性格を持つ以上、宗教的多元主義の体制を永続化することは不可能である。ヒューマニズム体制にも、宗教的不寛容は存在する。ソ連や中国を見ても分かるとおり、ヒューマニズムは、「主権在人間」を脅かすものを容赦なく断罪し、排斥する。
(***)
ただし、人間は未完成なものであり、欠点だらけのものであるから、完璧を期待することは不可能である。
2003年12月22日
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