救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する31
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2.律法の二重の効用の問題
どの社会においても法は、宗教的文脈の中で誕生したものと思われます。その意味では、すべての法は、何らかの宗教的価値観を前提として成り立っています。
しかし、国家が形成され、法システムが複雑化するにつれて、どの文化圏においても、「宗教法」と「社会法」を分離する方向へと進んで行きました。
しかし、数少ない例外があり、それが、ユダヤ教の律法と、イスラム教のコーランです。律法もコーランも、宗教法と社会法が分離しておらず、一体不可分です。
つまり、「宗教法」と「社会法」を分けて考えるという近代ヨーロッパ的な分類方法が、律法には適用できないということです。
しかし、無理に適用したと仮定した場合、律法には「宗教法上の死刑」と「社会法上の死刑」と、二種類の死刑が存在することになります。そうであるならば、死刑に価する罪人は、論理的には二度死刑に処されなければならないことになります。つまり、宗教法のもとにおける死刑と、社会法のもとにおける死刑です。
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近代ヨーロッパのヒューマニズムは、「非宗教(または中立)」の仮面のもとに自分の本当の姿(つまり宗教)を隠しました。
そして、その「非宗教」の姿によって、王の座につき、いわゆる「既成宗教(キリスト教やイスラム教)」を宗教と呼び、そうではないものを「社会」と名づけたのです。
このような近代ヨーロッパのヒューマニズムが分類した「宗教」と「社会」という誤謬のカテゴリーは、聖書に適用することはできません。
律法が、対神関係と対社会関係の2面を持つと私がいったのは、言い換えれば、対神関係と対人関係といえると思います。
イエスは、律法をまとめるならば、「全力を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛せ」ということになる、と言われました。律法の本質は、この2者に対する愛です。
それゆえ、罪とは、神と人に対する愛の欠如ということができます。
人間が罪を犯した場合、常に、そこには2種類の償いが必要となります。
一つは、神に対する償い。そして、もう一つは、人に対する償いです。
神に対する償いは、キリストが身代わりに行ってくださいます。しかし、人に対して犯した罪は、その相手に謝る以外にはありません。
「神に対して悔い改めたから、あの人には謝罪しなくていい」ということはできません。
罪は、たとえて言えば、神の庭で穴を掘って、その土を他人の庭に投げ捨てることと同じです。
神の庭にできた穴をキリストによってふさいでもらっても、他人の庭に捨てた土は残っています。
ですから、我々は、隣人に対する責任を果たすために、市民的権力(国家)によって刑罰を受けなければなりません。
人の家に泥棒に入って盗んだ人は、神に謝罪するだけではなく、その被害者に弁済しなければなりません。人を殺した人は、神に謝罪することによって罪赦されますが、司直の手に委ねられた後、処刑されます。
2004年1月9日
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