フラー神学校は、世界最大の超教派神学校として、世界のキリスト教会にきわめて大きな影響を与えている。そのため、フラー神学校の神学的誤謬について考察することは非常に重要である。
(1)
フラー神学校は、1947年に、ファンダメンタリズムの組織として創設された。
創設者チャールズ・E・フラーは伝統的なリバイバル派のファンダメンタリストであり、設立の目的を新約聖書の信仰を守り、キリスト教を弁証することに置いた。
最初の教授陣のひとりハロルド・リンゼルは、次のように述べた。
最初から、「この神学校の設立の主要な目的の一つは、弁証的機関とすることにある」と宣言されていた。設立の最初から、教授たちは、「この神学校のカリキュラムを通じて、聖書の無謬性と無誤性を最も強力に弁証することを目指す」という点で同意していた。
しかし、この目的はすぐに廃棄された。聖書にしたがって正しい教えとそうではない教えを区別し、聖書の真理のとりでとなるはずが、様々な異端的教えのルツボとなった。
その誤謬の発端は、設立の最初から新福音主義者(ハロルド・ジョン・オッケンガ、カール・F・H・ヘンリー)が教授陣に含まれていたことである。
フラー神学校の初代校長でもあったオッケンガによれば、「新福音主義は、分離主義を否定し、…[モダニズムとの]神学的対話への参加を決意するという点でファンダメンタリズムと異なる」(1948年カリフォルニア州パサデナでの集会にて)という。新福音主義者たちは、キリスト教界の主流派に留まるために、教理においてファンダメンタリストであると告白しつつも、アカデミックなレベルにおいて新正統主義者やリベラル神学者たちと対話することを求めた。
米国長老教会のアッシュブルックは次のように述べた。
モダニズムとの間の神学的対話を再開することは、新福音主義にとって重要な主張である。ここで、「ディベート」ではなく、「対話」という言葉が用いられていることに注意すべきである。ディベートとは、立場を明らかにするために行われる対決である。しかし、対話は、立場をぼかして妥協するために行われる会話である。…オッケンガ博士が対話することを望んだテーマとは一体何か。The Battle for the Bibleの序論に記された彼の言葉から見てみよう。
「新福音主義は、次のことを強調する。すなわち、時代のニーズに合わせてキリスト教神学を再編すること(restatement)、神学的ディベートを再開すること(reengagement)、教派のリーダーシップを再獲得すること(recapture)、そして、神学的問題を再検討すること(reexamination)である。再検討すべき神学的問題として挙げられるのは、人類の誕生時期、洪水の範囲、神の創造の方法、その他である。」
私は、このオッケンガ博士の「再編」という言葉に注目したい。私は、神学校で、ニーズに合わせて神学が再編されるべきだと教えられたことは一度もない。もし神学が聖書の主張どおりに説かれているならば、それを罪深い世界や背信的な教会の口に合うように再編することは正しいことだろうか。
新福音主義は、米国教会会議や、ユニオン神学校、大統領朝祷会の列席者の間に波風を立てないように神学を再編し微調整を試みてきた。これらの場所で、聖書的な神学を述べることなど不可能であり、また、それを暖かく迎えてもらおうとしても無理だ。しかし、ビリー・グラハムはずっとこのことを行ってきたのだ。
(http://www.americanpresbyterianchurch.org/separatism.htm)
聖書に基づいて、正しいものと間違ったものとを分離することを拒絶し、モダニズムとの対話を肯定するような人々が最初から教授陣に含まれていれば、第一世代で堕落が始まったとしても無理はない。
(2)
この「対話」を通じて、フラー神学校には、異なる教えが侵入した。
フラー神学校組織神学教授ポール・ジェウェットは、1975年に『男性と女性としての人間』という本を出版した。この本の「まえがき」に寄稿したのは、ニュー・ジャージー州ウィリアム・パターソン大学英語学部長バージニア・モレンコットである。
モレンコットは、レズビアンであり、もっとも急進的なフェミニストグループで活動していた。彼女は、1978年に『同性愛者は私の隣人だろうか』という本を著し、その中で、「創世記のソドムに関する物語は、同性愛を非難しているのではなく、強姦や、旅人に対する冷たいあしらいを非難しているのである。」(71ページ)と述べた。また、ローマ書1章は、「誠実な同性愛者のクリスチャンには当てはまらない」(62ページ)とも述べた。
さらに、米国聖公会が発行する『証人』誌の1991年6月号において、「レズビアンは、常に私の一部である。…私は異性愛者になろうとした。…しかし、私が最後に分かったのは、神が私をレズビアンとしてお造りになったということだ。…」と述べた。
また、『男性と女性としての人間』の「まえがき」の中で、「私の知る限り、ジェウェット教授は、『女性が服従を強いられる時に、女性は必然的に劣った者にならざるを得ない』という事実に四つに取り組んだ最初の福音的神学者である」と語った。
パウロは、「…もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない…。外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(1コリント5・12−13)と述べている。
同性愛者のクリスチャンと付き合い、自分の著書の「まえがき」に寄稿を求めることは違法である。
さらに、『男性と女性としての人間』の中で、ジェウェットは、自分が聖書批評学の影響を受けていることを認め、聖書は人間によって記されたものである以上、聖書に誤りが含まれていると主張した。
聖書の文書の歴史的・批評的研究により、教会は、聖書の権威に関するこの単純な見解[つまり、聖書が誤りのない神の言葉であるという見解]を捨てることを余儀なくされた。
(Jewett, Man as Male and Female, p. 135.)
さらに、彼は、創世記2章は、歴史的事実ではなく、宗教的神話もしくは寓話であり(122ページ)、その真作者はモーセではない(114ページ)、と述べた。
アーサー・B・フーク博士(Arthur B. Houk, Sylmar, CA 91342; ahouk@juno.com)によれば、フラー神学校神学部のジョン・ゴールディンゲイ博士は、授業の中で、エリコが存在したという考古学的証拠は存在しない。また、その城壁が崩れ落ちたということも確証されていない、恐らくこれは寓話だろう、と述べたという。
聖書は、はっきりとエリコの城壁は崩れたと述べている。
信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。(ヘブル11・30)
フラー神学校(シアトル)助教授(教会史)チャールズ・スカリスは、著書『聖書から神学へ』の中で、聖書を、神の無謬の啓示を表した歴史的に正確な記録として受け入れることを明確に、かつ躊躇なく拒絶した(Charles Scalise, From Scripture to Theology: A Canonical Journey into Hermeneutics (InterVarsity Press, 1996), pp. 28−31)。
聖書の記述の歴史性を疑う者は、もはやクリスチャンではなく、それゆえ、神学校の教壇に立つ資格を失っている。
このように、フラー神学校は、実質的にリベラル化したのだ。
(3)
自分たちがリベラル化したのであれば、まだ不信仰は、自分たちとその下にある教会に留まっており、害は少ない。
しかし、フラー神学校は、それを各教派に輸出しようとしている。
オッケンガ博士の「教派のリーダーシップを再獲得すること」という発言に注目して欲しい。
新福音主義は、「対話」という手段で自分と相手の垣根を低くし、自分を変質させ、また相手も変質させることによって、教派のリーダーシップを乗っ取ろうとしているのだ。
結果はすでに現われている。
現在、アメリカだけではなく、日本の教会も、フラー神学校の卒業生を通じて、広く妥協的神学が浸透している。
教会は、リベラルやエホバの証人、統一協会などには警戒している。これらの影響を排除することには熱心である。しかし、フラー神学校の卒業生を通じて侵入する新福音主義には無防備である。
私は、多くの教会や牧師が、教会成長という美名のもとに、ヒューマニズムの心理学や、経営学、文化相対主義の侵入を許してきたのを見てきた。
「現代人に受け入れやすい福音を!」というスローガンのもとに、聖書的教理が薄められ、「理屈はいいから、人が救われればよいのだ」という風潮に汚染され、かえって聖霊の救いの御業が損なわれるのを見てきた。
今こそ、教会は気づくべき時ではないだろうか。
サタンは、光の御使いに偽装してやってくることに。
http://www.wayoflife.org/fbns/unbeliefat.htm