フルプレテリズム批判4


<T師>

天地(旧い契約と古いイスラエル)が滅びていないなら私たちは今も律法の一点一画のすべてを守らなければなりません。そして私たちは今も律法の下にあり、律法の呪いの下にある者となってしまいます。しかし感謝なことには、キリストが十字架の御業と復活、そして再臨を通して天地を滅ぼしてくださったので、私たちは律法の呪いの下ではなく、キリストの新しい契約、新しい天地の中にいて、自由となっているのです。ハレルヤ!

<tomi>

すでに私が述べたことをまったく無視して議論を展開しています。
MLなどの初心者の人なら分かりますが、これだけ私のものを読んでいる人がこの程度の誤解をしているのを読むのは非常につらいものがあります。

以下、誤解している部分を指摘します。

(1)旧約時代の人々は、律法の呪いの下にいた。
(2)新約時代の人々は、天地が滅びたので、律法の呪いから解放されて自由だ。
(3)今は、律法の一点一画のすべてを守らなくてもよい。

(1)旧約時代の人々も、律法の呪いから解放されていました。
 どうやってでしょうか?
 それは、動物犠牲の贖いによってです。

 すでに述べたように、旧約律法は、「罪の呪いからの解放の道を示していたのです。」

「この雄牛に対して、彼が罪のためのいけにえの雄牛に対してしたようにしなさい。
これにも同様にしなければならない。こうして祭司は彼らのために贖いをしなさい。
彼らは『赦される』。 」(レビ4・20)

「また、彼は和解のいけにえの脂肪の場合と同様に、その脂肪を全部、祭壇の上で焼
いて煙にしなければならない。祭司は、その人のために、その人の罪の贖いをしなさ
い。その人は『赦される』。」(レビ4・26)

先生、何度も何度も繰り返しますが、次の考えは間違いです。

「旧約時代は、律法によって人々は奴隷にされ、呪われていたが、新約時代にはそこから解放された」

なぜならば、律法は、「自由の律法」だからです。

神は、律法を与えられた時に、

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(出エジプト記20・2)

といわれたからです。

神は常に「解放の主」であり、神のご性質は不変であり、それゆえ、律法の性質も不変です。

もう一度いいます。

神は常に「解放の主」であり、神のご性質は不変であり、それゆえ、律法の性質も不変です。

くどいようですが、もう一度言います。

神は常に「解放の主」であり、神のご性質は不変であり、それゆえ、律法の性質も不変です。

イスラエルの人々は、犠牲を通して、律法の呪いから解放されていました。もし解放されていなければ、旧約時代の人々はみな滅んだ、天国にいる人は誰もいないということになります。


(2)新約時代の人々は、天地が滅びたので、律法の呪いから解放されて自由だ。

「天地(旧い契約と古いイスラエル)が滅びていないなら私たちは今も律法の一点一画のすべてを守らなければなりません。そして私たちは今も律法の下にあり、律法の呪いの下にある者となってしまいます。」

律法の呪いから解放されたのは、「天地が滅びたからではあ・り・ま・せ・ん。」

律法の呪いは、「キリストが身代わりに我々の罪を負われた」からです。

これだけが「呪いからの解放の道」なのです。キリストの十字架以外に、呪いからの解放の道を用意するのは、明らかな異端です。

「天地が滅んだ」→「律法は廃棄された」→「律法の呪いの下にいない」

これは、キリストの十字架による救いではなく、「環境変化による救い」であり、環境決定論の異端です。

これは、問題を倫理から、環境に責任転嫁する考えであり、「悔い改めを不要とする」明らかに重大な誤謬であり、けっして認めることはできません。

人間は、ただひたすらに、「神に対して罪を悔い改め、キリストにおいて自分の罪が処罰されたことを信じることによって『のみ』」救われるのです。

天地が滅んだことが、律法の呪いからの解放の理由になるならば、キリストを信じない人でも解放されるということになります。

とんでもないです。


(3)今は、律法の一点一画のすべてを守らなくてもよい。

人間は、今でも律法の一点一画すべて守らねばなりません。

「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」(ヤコブ2・8-10)

「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」、つまり、「一点でつまづいてはならない」ということです。

しかし、それじゃあ、人間はみな罪人になってしまうではないか、と言わるかもしれませんが、「そうです。」と答えます。

人間は、みな罪人なのであり、今も律法の呪いを受けているのです。

天地が滅んだから今は、解放されたなどということはまったくありません。

我々が解放されるのは、キリストの犠牲を信じて悔い改めたからです。

誰でも、キリストを信じる人は、罪に定められることはありません。

これが救いです。いや、これ『だけ』が救いです。

 

 

2004年2月25日

 

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