フルプレテリズムが問い掛ける問題の重大性


(1)
旧約聖書を新約時代のクリスチャンの教訓とするというのは、聖書的根拠があります。
なぜならば、聖書は、イスラエル人が入っていた契約の家に、異邦人も招かれて入ったと教えているからです。

しかし、たとえば、イエスの「律法の一点一画たりとも『すべてのことが起こってしまうまで』廃れることはありません」(マタイ5・17)の御言葉において、「すべてのこと」というのが、紀元70年までの出来事ということになれば、今日律法の有効性を主張できなくなります。

なぜならば、黙示録の新天新地とは万物の完成(黙示録21・1、6)として位置付けられているわけで、それがすでに起こったということは、「すべてのこと」もすでに起こっている。


(2)
「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の回復する時まで、天にとどまっていなければなりません。 」(使徒3・20-21)

フルプレテリズムは、イエスは天からすでに(70年に)降りてこられた、と主張するわけですから、「万物の回復」はすでに起こった、と考えなければならない。

もうすでに万物が回復したのであれば、では、我々の活動にはいったいどのような目的があるのか。

(3)
大宣教命令で、もし「世の終わり」を70年と設定すると、「すべての国民を弟子とせよ」というのは、すでに完了したということになる。それでは、我々の宣教にはいったいどのような意味があるのか。

たしかに、教訓(伝道は大切だ)として読むことはできますが、プレテリズムの解釈だと、「聖書の直接の当事者に宛てられた命令」以上のものと読むことはできないのですから、「あれは、イエスが弟子達に語ったことでしょう。しかも、その使命はすでに成就して、世の終わりもきてしまった。じゃあ、我々は何をすればよいのでしょうか?」ということになります。

教訓は教訓であって、「具体的な命令」ではない。現在世界で活動している宣教師たちを励ます言葉はいったい何なのでしょうか。

たしかに、これは、非常に重要な問題です。
いわば、コペルニクス的転回であろうと思います。
これまでの神学のほとんどすべてを変える必要があるかもしれなくなる、2000年に一度の大パラダイムシフトです。

新約聖書が、70年を目標・再臨・回復・完成の時・新天新地にしているというのは軽々しくは否定できない部分がある。

しかも、もし、70年を来臨とすれば、再臨が2度あるということになる。はたして、使徒たちは、再臨を2度あるものと考えていたのだろうか。それよりも、70年の来臨を一度限りの再臨と考えていたのではないか…。

しかし、同時に大きな問題として上がってくるのは、私が上記に述べた3つの問題です。

フルプレテリズムを信じると、聖書の律法も、大宣教命令も、歴史的教訓以上のものであると主張することが難しくなります。

では、70年の再臨後、諸国民の弟子化が完成した現在、我々は一体何をすればよいのか。

聖書は直接我々に何も教えていない!!!

巨大な空白です。我々は、新天新地の住民であり、天国に住む人々であり、黙示録22章以後の世界に住む人々である。

しかし、ヨハネは黙示録23章を書かなかった。

もし、パーシャルプレテリストのように、我々は黙示録20章の千年王国に住む人々である、ということになれば、カルヴァンのように、「戦う教会」を明確に打ち出せます。

しかし、そうではない。我々は戦いの中に置かれたと記されていない。エペソ6章の勧めは、70年以前のクリスチャンに対するもので、70年以降は、新天新地なのだから、教会は戦う必要があるのかどうか分からない。

おわかりと思いますが、もしフルプレテリズムを採用したら教会は、ほとんどすべての教義を書き換えなければならなくなるのです。
それゆえ、結論を出すには慎重にしたいと思います。

ご注意:私はけっしてフルプレテリストではありません。後にはっきりと否定の文章を発表していますので、それをお読みください。

 

 

2004年2月20日

 

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