聖書はアラム語のイディオムを知らないと読解できないのか?
ジョージ・ラムサの本(Idioms in the Bible Explained: And, a Key to the Original Gospels)は非常に興味深いので、やはり買っておくことにします。
私の知り合いで、アッシリア人がいます。彼は、技術者として鹿島建設に勤務後、現在退職しています。
先祖が、シリア教会の聖職者だそうで、彼はアラム語ができるのでいろいろと聞いてみたいと思います。
イディオムに関する問題は、
(1)今まで、なぜ教会は、このような重要なテーマについて考えてこなかったのか?聖書解釈にアラム語のイディオムの知識が必要という考えがなぜ脳裏に浮かばなかったのか。
(2)パウロがアラム語を母国語としたとしても、ギリシャ語で記述した時に、そのアラム語のイディオムを、まったく言葉の体系の違うギリシャ語にも使用したということが果たしてあるのか。
ということにあります。
(2)については、たとえば、日本人が英語で作文したときに、日本語のイディオムをそのまま英語にすることがあるだろうか、という疑問がありますよね。
呉越同舟を「呉と越が同じ舟にいる」とそのまま訳しても英米人に通じない場合は、注意書きをするか、もしくは、それを使用しないです。
パウロがアラム語のイディオムをそのまま使用した背景に、テサロニケの人々の間にアラム語を話すユダヤ人がたくさんいて、説明不要だった、というなら納得できます。
たしかに、パウロは、最初ユダヤ人に伝道していたのだから、このような状況があったと考えても無理はないのですが、しかし、当時徐々に現われはじめていた異邦人クリスチャンのためには不親切ということになります。
ローマ帝国内の異邦人クリスチャンは、ギリシャ語と、自民族の言葉のバイリンガルだったと考えられるのですから、「異邦人の使徒」を自認するパウロが、そのような背景を無視して、自国語のアラム語のイディオムをそのままの形で使ったと考えられるのか。
これらの点について考える必要があると思います。
2004年2月11日
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