進化論の成立 3


ルネッサンス期の科学は、アリストテレスの科学から引き継いだ宇宙に関する概念を拡大した。つまり、宇宙は、測り知れぬほど巨大であり、最後には、「無限である」とすら考えるようになった。

啓蒙主義思想家、とくにカントは、この宇宙の空間的無限性に対応して、時間も無限であると仮定した。この時間の無限性は、聖書の創造記事を次第に神話の領域に追いやる結果となった。

人々は、「時間が無限であるということは、始まりがなかったということだ。とすると、聖書が教える創造はウソということになる」と考えはじめた。

さらに、「宇宙が創造されたものでなければ、地球も月も創造されたものではなく、すべて自律的に出来たのではないか、また、地球上に存在する生物も、自律的にひとりでに出来上がったのではないか。」と考えはじめた。


「宇宙論的進化」は「地質学的進化」を導き出し、地質学的進化は「生物学的進化」を導き出した。
(Gary North, ibid., p. 376.)

しかし、これらの進化説は、どれも非常に大きな時間的広がりを必要とした。アメリカにおいて生物進化を一般化するのに最も成功したローレン・アイズリーは、この点を繰り返し主張した。

どの進化の学説も、非常に長い時間を割り当てることなしには成立しない。しかし、当時支配的だったキリスト教宇宙論は、それを疑問視する科学者に対して、実にこの点について、ノーをつきつけたのだ。プトレマイオスの天文学とコペルニクスのそれとの間に起こったほどの大きな変化が、西洋思想における時間の概念にも起こらなければ、誰も、生物進化の可能性について考えることすらしなかっただろう。前者は後者の絶対必要条件なのである。
(Loren Eiseley, Darwin’s Century: Evolution and the Men Who Discovered It (Garden City, N. Y.: Doubleday Anchor, [1958] 1961), p. 58; cited ibid., p. 376.)

1750年に、地球が六千年よりもずっと古いことを信じていた科学者はまだきわめてまれだったし、一般市民は皆無だった。1850年までには、おそらく科学者の大多数が地球の年齢ははるかに古いと信じていただろう。発売後すぐにベストセラーを記録した『種の起源』(1859年)は、地球の年齢に関する意識革命が進んでいなければ、けっして出版されることはなかっただろうし、人気を得ることもなかっただろう。このような意識革命はどのように起こったのだろうか。

はじめて地質学的進化の概要を発表した学者は、おそらくフランス人コント・ドゥ・ブッフォンであろう。26歳の時に(1733年)に王立美術院の会員となり、1739年に王立自然歴史室の管理者に任命されたブッフォンは、1749年に『自然歴史』の第一巻を出版した。彼の宇宙論の原理は単純である。すなわち、「時間は、自然の偉大なる職工である。」(Buffon, cited by Greene, The Death of Adam(Ames: Iowa State University Press, 1959), p. 148; cited ibid., p.376.)というものだった。

次の文章の中で、彼は、「斉一説」の原理を説いている。

彼[時間]は規則的かつ一様に進む。彼は突然何かを行うというようなことはなく、徐々に、継続してことを進める。彼の力に逆らうことのできるものは何もない。…

ブッフォンは、正統派キリスト教とアリストテレスの学説の基本的信仰である「最終目的」を捨てた。
彼は、宇宙はとくにどこかに向かって進んでいるわけではない、と主張した。これは、現代科学の重要な考えの一つである。つまり、現代科学は、宇宙に目的があることを前提していないし、また、それを証明しようとしない。

実際、現代の生物進化論は、チャールズ・ダーウィンが目的論(最終目的、究極の到達点など)を拒絶することなしには成立しなかった。初期の生物進化論は、ある程度、目的論的な枠組みを備えていた。ブッフォンは、ダーウィンの『種の起源』が出版される百年前にすでに、非目的論的宇宙観の基準を設定していた。

 

 

2004年1月31日

 

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