真の個性とは?
個性的であることが「流行」している。
個人的にも、民族的にも、個性が尊重されている。
個性は罪によっては生まれない。
世俗心理学は、「あなたのありのままの姿が貴いのです。すべてのしがらみから解放されて、それを回復できるように。」と言って、自分の本能の赴くままに生活することを奨励する。
世俗カウンセラーは、「あなたは、自分の同性愛の傾向を嫌ってはなりません。罪悪感を持たないでください。ありのままの自分を受け入れてください。」とすらいう。
アメリカの公立教育では、「あなたがたとえ新聞に載せることもできないような犯罪を犯したとしても、あなたは自分に自信を持ちなさい」と教えている、という(http://www.millnm.net/qanda/pubsch.htm)。
しかし、本当の個性の発揮とは、神が我々のうちに創造された似姿への回帰である。
C・S・ルイスは、次のように述べた。
「神に支配していただく領域が広がれば広がるほど、我々はますます本当の自分になることができる。神が我々を創造されたからである。神は、我々が本来なるべき姿を各人のうちに作り出してくださっているのである。…キリストに立ち返り、自分自身をキリストに明け渡す時に、私は、その本当の自分の個性を身に付けることができるようになる。」
聖書において、罪とは人間の本質ではない。
罪とは、あくまでも付加物である。
後から追加されたものである。
だから、その付加物を取り去るならば、本来の自分が見えてくるのである。
民族的にもこのことが言える。
サタンに支配されればされるほど、民族には顔がなくなるのである。
あったとしても、本当の自分の顔ではない。
ゆがんでいるのである。
北朝鮮の子供たちを見て、これが彼らの素顔だと感じられるだろうか。
「性転換をして本来の自分に帰れてうれしい」と言っている人々に騙されてはならない。
彼らの本当の姿は、罪という名の付着物によって覆われているのである。
本当の姿はまったく違うところにある。
放蕩息子は、父親のもとに帰った時に、ボロボロの服を脱ぎ捨てて、本当の自分の姿――裕福な家庭の子供――に戻ることができた。
自分に取り付いている罪や汚れはけっして本来の自分の姿ではない。
そのような付着物を一日も早く取り去り、真の自分を取り戻すべきである。
2003年05月15日
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