男性には大きな特権と同時に大きな責任がある
<ご質問>
ただ、女性が男性を教えるという場合、女性が自分の立場を利用して、男性を支配するような形で教える場合と、男性の側から、ある女性の持っている知識、体験を学びたいと願って教えてもらう場合とあると思いますが、男女の秩序、男性の主導権という観点から言うと、パウロが禁止しているのは前者の意味においてだと思うのですがいかがでしょうか。被り物をしたうえでの「預言」が許されているということは、男性の主導権を維持した上で、つまり、男性の側から教えてほしいと願って、女性に教えてもらうということは認めているということですね。
<お答え>
そうだと思います。
Chalcedon Reportで、以前ラッシュドゥーニーの奥さんのメッセージが載っていて、それに対して読者から「女性に教えさせていいのか」というクレームがあり、それ以降、「Mrs. Rushdoonyのコメント」という題に変わったと記憶しています。
女性教師の問題についてかなり厳格な派においても、「証」とか「コメント」、「エッセイ」のようなものは、雑誌に載っています。
<ご質問>
ということからいっても、女性が教えるという表面的な行為そのものをパウロが禁止しているというよりも、男性が自分の主導権を女性に明け渡し、女性の考えにまったく導かれていくあり方に対してではないか思っています。ですから、同じ女性が男性を教えるとしても、男性がイニシアチブを握った上で、ある女性の持っている知識を、男性の側から学ぼうとすることは、問題ないことだと思っています。
現代の教会の秩序が乱れていると言われるのは、女性が強くなったというよりも、男性がだらしなくなったからではないでしょうか。特に最近、教会の中にマザコンゆえか、リーダーシップを発揮できない男性が増えてきたように感じています。教会の秩序が乱れているのは、そのようなマザコンの男性が女性に主導権を明け渡してしまい、女性に尊敬され女性が従うことを心から願うようなリーダーシップを男性が発揮できなくなってしまったからではないでしょうか。男性の罪深いエゴによるリーダーシップではなく、キリストに従うゆえの愛によるリーダーシップが発揮されるなら、女性の行動や発言を無理やり規制して男性に従わせようとしなくても、女性は愛のあるリーダーシップのある男性には従いたくなる(キリストに従った女性たちのように)ように造られていると信じますので、自然と秩序は回復されるように思います。ですから、今の時代、男性は女性のことをとやかく言う前に、まず自らがしっかりキリストに従い、キリストの愛とそのリーダーシップを教会において示していくことが、結局は教会の秩序の回復の一番の近道だとおもうのです。そのうえで、必要な教会の秩序維持の規律が定められるならは、それはそれで有効なものになるのだろうと思っています。
<お答え>
同感です。
女性がリーダーとなるような社会はある意味において、男性の側に問題があるからであることが多く、女性における乱れは、まず彼女らの上に立つ男性の中に乱れがあるからと聖書は述べています。
「わたしは、あなたがたの娘が姦淫をしても罰しない。また、あなたがたの嫁が姦通をしても罰しない。それは男たちが遊女とともに離れ去り、神殿娼婦とともにいけにえをささげているからだ。悟りのない民は踏みつけられる。」(ホセア4・14)
女性の服装や発言、行動を無理やり規制するのは間違いです。
聖書のリーダーシップの大原則は、「もっともよく仕える者がリーダーになれる」というサーバントリーダーシップです。
市場経済は、競争原理によってこのようなリーダーシップを発揮せざるを得ない環境を作っているので、聖書的と考えられます。消費者によりよく仕える会社が生き残る。
教会も同じで、よく「教会を変えることは親を変えることだ」といって、教会員を教会に縛り付けようとする話を聞きますが、その教会が聖書的ですぐれたメッセージを提供せず、牧師が聖書的でない権威を振りかざして、信徒を力で支配するような教会は淘汰されるべきと思います。
自分に問題があって、教会をコロコロと変えるのは間違いですが、教会自体が神に対して不忠実で、そこにいることが自分の忠誠心もおかしくしてしまうような交わりならば避けるほうがいいのです。
聖書をまっすぐに説いているすぐれた教会に行くほうが、人間的権威を振りかざして自分の王国を作ろうとしている教会に行くよりもよいでしょう。
私が女性の行動や発言、服装に対して規制すべきと言ったのは、あくまでも「原則」です。
そのことを具体化するには、知恵が必要と思います。押し付けるような尊大な態度で要求していくならば、その牧師はすでに牧会者をやめています。
カルヴァンは、「牧師は信徒をやさしく招くようなやり方で指導すべきだ」と述べました。
男性と女性の関係は、あくまでも相補的であり、互いに互いを必要としています。これは、神がどの被造物にも「自存性」を与えなかったからです。
「自存」であるのは神お一人であり、被造物は必ず誰かに依存しています。この宇宙は、互いに影響を与え合い、互いを必要とし合う「依存的」被造物の集合です。
しかし、相補的であるからといって、そこに上下関係がないというわけではなく、男女の間には秩序が存在すべきであり、男性は女性のリーダーとして立てられている、というのが聖書の主張だと思います。
しかし、男性はリーダーであるがゆえに、女性よりも大きな責任が与えられ、服従できなかった場合には、格別の厳しい裁きが待っています。
大きな特権には、良い意味でも悪い意味でも大きな報いがあります。
2003年06月16日
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