自然主義は非聖書的である2
<亀井様>
〈自然法〉は、社会性という人間理性の自然本性に基づくものであり、もともとはやはり神によるとはいえ、すべての人間に普遍であり、もはや神にも変えられません。
<tomi>
アルミニウス主義が、自然法を唱える時に、「すべての人間に普遍」である「人間理性の自然本性」を無垢と見ているのは明らかです。
これは、「人間の心ははなはだしく陰険で、それは直らない」(エレミヤ17・9)と述べたエレミヤの発言と矛盾します。
アルミニウス主義の誤謬の根源は、ここにあります。
すなわち、「人間の全的堕落を信じない」というところです。
アダムにおいて、人間はトータルに堕落した。これは、徹底して堕落し、悪魔のようになったということではない。人間の肉体のあらゆる部分が病気にかかるように、人間存在のあらゆる部分が「不完全」になった、ということです。
アルミニウス主義は、この人間の全的堕落を信じないというだけではなく、人間に連なる自然世界全体の堕落も信じない。そこから自然法に対する信頼が生まれる。
私が二重契約説を取り、アダムの契約が「業の契約」であったと主張するのは、アルミニウス主義の再侵入を防ぐためでもあります。
周知のように、二重契約説とは、「アダム契約は業の契約であり、アブラハム契約などの恵みの契約とは区別しなければならない」と説く教えです。
「アダムは、全被造物を背負って神と契約を結んだ。アダムと他の全被造物は一体であるから、代表者であるアダムが堕落した時に、被造世界全体が堕落に巻き込まれた」とします。
天使が堕落しても、被造世界全体は堕落しませんが、アダムが堕落した時に被造世界全体が巻き込まれたのは、「アダムが地から生まれた」からです。
アダムの肉体は、「地のちり」から造られており、それゆえ、人間は地球と兄弟です。人間は死ねば肉体が地の一部に帰るので、実質的に人間は地球と一体です。(天使は、地との間にこのようなつながりはない。)
この記述は単に地球だけではなく被造世界全体とも一体であることを表していると考えねばなりません。なぜならば、「被造物は虚無に服して」(ローマ8・20)いるためであり、それゆえ、「天地はキリストによって神と和解されなければならない」(コロサイ1・20)からです。
どうしたって、アダムの堕落が天地万物の堕落を導いたとしか考えられない。
もし、アダム契約が業の契約でなかったとしたら、アダムの失敗は、被造物全体の堕落にはつながらなかったでしょう。
というのも、恵みの契約とは、「自分以外の功徳によって恵みを受けることができるための契約」だからです。
つまり、恵みの契約の代表は、「自分以外の者」でなければならない。
この「自分以外の者」とは、もちろん、キリストです。
もし、アダムが最初に神と結んだ契約が恵みの契約であったということであれば、被造世界全体が堕落したのは、契約の代表者であるキリストが堕落したからだ、ということになってしまうのです。
明らかに、アダムの最初の契約は、「恵みの契約」ではなかった。
完璧なものとして創造された彼には贖いは不要だった。
贖いが必要になったのは、堕落した後です。神が、堕落直後に、彼に「動物の毛皮」を着せてくださったことは、「他者の犠牲が必要になった」ということを象徴し、アダムが「業の契約」の中から「恵みの契約」の中に移行したことを示しています。
最初の契約を「恵みの契約」とすることによって、アダムが契約の代表として堕落した時に、なぜ全被造物も堕落したのか説明できなくなります。
そして、それが説明できなくなるため、全被造世界の堕落を契約外の出来事と解釈せざるを得なくなり、その結果、「人間以外のものは堕落していない」という意見が登場する隙を与えてしまいます。
それは必然的に「自然は堕落していないので、基準になれる」という「自然法」の考えの侵入を許し、それは、最終的には、聖書律法の否定につながります。
つまり、
「二重契約説否定」→「自然基準説」→「自然法」→「聖書律法否定」→「世俗領域の自律」→「全領域の自律」
という流れにいたる恐れがあります。これは、次のように西洋思想がたどった失敗の流れを再現することになります。
「スコラ神学」→「自然理性は堕落せず」→「理性領域の自律」→「自然世界の自律」→「唯物論」→「神の徹底排除」
アルミニウス主義の「自然世界の自律」は、実質的にローマ・カトリックと同じ位置に立っており、その考えを発展させれば、どうしたって最後には、「神の徹底排除」に至らざるを得ない。
アルミニウス主義を追い出し、自然法を追い出すためには、我々は二重契約説を取る必要があります。
2004年3月3日
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