自由主義神学は異端である
<fms様>
fmsです。
>牧師は、ある意味で人々に恵みの福音を伝える水源です。
>その水源に毒がまかれれば、どういうことになるでしょう
>か
牧師は特別厳しい裁きを受ける立場にあるのですね。
ところで、フルプレテリズムやワンネスは、伝統的な大多数の教会では受け入れられていないでしょうし、彼らに異端宣告をするのは、外部の私にも比較的(?)わかりやすいと思いました。
しかし、世の中の、これまた多くの教会は、歴史科学的な自由主義神学を多く取り入れています。
彼らは、三位一体を否定することは無いし、ワンネスを説くこともないようですが、聖書批判に関しては教会も世の人々も、抗し難い説得力を持っているように思います。
世俗社会では、彼らの教説を支持する者が圧倒的に多いのではないでしょうか。
昔、何かの本で読んだのですが、伝統派の牧師(西洋人)がブルトマンの著作に触れて、信仰に破綻を来たしてしまい、それだけではなく、遂に生活も破綻してしまったというがありました。
自由主義神学に異端を宣告した人はいるのでしょうか?
<tomi>
自由主義神学の学問的方法とは、一見すると、もっともらしいのです。なぜならば、現代人は、「帰納法的認識論を絶対視する」という妄想に取り付かれているからです。
帰納法的認識論とは、聖書とかアリストテレスの教えとか、そういった「ドグマ」から出発するのではなく、まったく白紙の状態から出発し、もっぱら観察されたデータだけをよりどころとして認識を開始し、終了する、という立場です。
しかし、帰納法的認識論の決定的な弱点は、人間の認識能力はどこまでいっても有限である、という点にあります。
たとえば、先日、「日本最古の箒」が出土した、と新聞に報じられていました。
しかし、誰もそれが「日本最古」かどうか知りません。もっと前の箒もあったかもしれません。つまり、帰納法的認識論で言えるのは、「<今のところ>これが最古だ」ということだけです。
これは、帰納法的認識論によって得られた「あらゆる」知識について言えるのです。それゆえ、「経験科学によって得られた知識は、『常に』反証の可能性を残している蓋然的な知識にほかならない」ということが、科学の前提になっています。
それゆえ、この原理を徹底すれば、「帰納法的認識論に基づく経験科学は絶対だ」ともいえなくなるわけで、それゆえ、経験科学は、その原理を採用し続ける限り、自分の方法を絶対と断定できません。
しかし、人間の性ゆえに、人間はこの限界を忘れて、宗教が依存する演繹的認識論を「偽り」と断定する誤謬に陥ってきました。自分の方法が絶対だといえないはずなのに、自らがその原理を忘れて、「ドグマ(権威)」を作り上げたのです。
よく、進化論者が、創造科学を「ドグマに依拠する疑似科学」呼ばわりするのは、自らの方法が「真正の科学」であると、経験科学を絶対視していることであり、自己矛盾なのです。
キリスト教徒たちも、愚かにも、世の科学に流されて、経験科学を絶対視し、ドグマによって認識を行う演繹的認識の方法を蔑むようになりました。
そのため、聖書すらも経験科学の手法によって検証が可能である、というような立場を取り始めたのです。
しかし、彼らは、「神の言葉がどれであるかを、人間が決定できる、ということになれば、それは、もはや神の言葉ではなく、人間の言葉になってしまう」という事実を忘れていました。
聖書の中で、「この個所は神の言葉だが、あの個所は神の言葉ではない」と決定した瞬間に、その「神の言葉」として選ばれた個所は、その選者の言葉になるのです。こうなると、キリスト教は、「啓示宗教」ではなく、「自然宗教」、つまり、人造宗教になります。
それゆえ、我々は、「自分の常識を超えた、人間よりも高い権威を設定するキリスト教の本来の立場に留まろうとする限り、神の啓示である聖書に手をつけてはならない」という原則を守らねばなりません。
キリスト教が、ヒューマニズムに陥らないためには、聖書を絶対の権威として、それを常に自分の頭の上において、「うやうやしく」接し、聖書にかかれていることを、「丸ごと」受け入れる以外にないのです。
自由主義神学は、聖書に人間のメスを入れる人造宗教であり、それゆえ、「作り事の神学」、つまり、異端です。
メイチェン、ヴァン・ティルなど改革派の人々は、自由主義神学を異端と呼んでいます。
<fms様>
再建主義・ファンダメンタリズム・正統主義といった聖書信仰に立つ人にとっては、私のような素人から見ても、自由主義が最大の脅威なのではないかと想像してしまいます。
件のO牧師にとっても、自由主義は毎日のように信仰を破壊しに来る悪魔かもしれません。
(O牧師については何も知らないのですが・・・。)
自由主義神学は、学問的方法があまりにも現代的なので、ついつい、知的興味から、私の生活とも仕事とも関係ないのに、手を伸ばしてしまいます。
と同時に、自由主義神学を信奉する人々のよりどころとなる「信仰」とはいったいどんなものなのだろうか、と疑問に思うこともあります。
彼らは、自分の心のよりどころとしての「原理」をなかなか明らかにしてくれません。
すくなくとも、彼らにおいて聖書信仰は潰え去っているのですから、それに代わる何かを心にもっていなければ、あれほどの仕事は出来ないように思います。
彼らも神に祈るようですが、彼らの神とはいったい???
fms
<tomi>
彼らにとっての原理とは、表向きには「人間は万物の尺度である」ですが、首尾一貫した原理ではありません。
この原理は、デカルトに始まりましたが、デカルトはまだ徹底しておらず、その弱点をロックやヒュームによって指摘されました。ロックやヒュームは「人間は万物の尺度にはなれない」と人間の認識能力の限界をするどく定めました。この指摘をふまえ、カントも、人間が知りえる限界は、「現象界」だけであり、宗教などについては認識できない、としました。しかし、カントは、「人間の自由」信者で、「自律」を拡大しようとした人でしたから、「現象界」だけに認識能力を止めることに満足できませんでした。
彼は、「叡智界」について人間は知ることができないのだが、知ることができないことにも、人間の自由を拡大し、それらを自分の主観に基づいて再構成できる、としよう、と判断しました。もちろん、これは逸脱であり、自ら設定した限界を、自分の原理に反して乗り越えることであり、それゆえ、非合理なのです。
カント以降、哲学は「人間は万物の尺度であり、世界の王様だ」と理由なく叫ぶ立場であり、それゆえ、どれ一つとっても、そこに正当性はありません。これはごり押しであり、「我々は、正当な権威はないが、権威なのだ」と叫ぶ立場です。
それに対して、キリスト教は首尾一貫しています。「神は創造者なので万物の尺度である」です。
「我々は創造者ではないが、万物の尺度であり、世界の再構成者である」と叫ぶ人と、「神は創造者であり、万物の尺度であり、世界の再構成者である」と叫ぶ人とどちらがスジが通っているでしょうか。
カント以降のヒューマニズムの原理に立った自由主義神学者たちは、この「我々は権威ではないが権威なのだ」と叫ぶ人々の尻馬に乗って、「いかなる権威もないのに」聖書にメスを入れ、聖書をバラバラに解体した人々なのです。
それゆえ、我々は、このようなムチャクチャな人々の意見に乗ることはできません。
我々は、彼らに対して「ちゃんとスジを通せ」と叫んでいます。
もともと、こういった根拠薄弱な立場である以上、彼らに首尾一貫した「原理」などありません。
なかなか立場を明らかにしないのは、「そもそもそのようなものは『ない』から」なのです。
自由主義神学は、張子の虎であり、ちょっと突っつけばフニャけてしまう立場でしかありません。
彼らを動かしているのは、信仰を撲滅しようとするサタンの野心です。
サタンは必ず裏切るので、時が来れば、彼らはサタンに裏切られて、後ろ盾を完全に失います。
サタンの神学は、人生の荒波に対処できるほど強くはありません。
「騙された!」と気付いたら、すぐに聖書信仰に立ち返ることです。
「悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまである。」(ヨブ20・5)
2004年3月1日
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