再建主義は信条主義ではないまったく新しい運動だって?
<fms様>
職場から。
まぁ、ほんと、キリスト教って世界で一番難しい宗教ですよね。
だから、面白くもあるんですが。
律法と福音の問題は、私にはわからないけど、「信仰のみ」によって救われるとか「信仰だけではなく、行いによっても救われる」とか、宗教改革時代にはいろいろ議論があったようですね。
ルター的な立場からだと、行いを強調しているヤコブ書なんて、聖典から除外したかったかもしれません。有名な「藁の書」発言。
しかし、普通に考えてみるとわかりますが、「山に登りたい」と思うから山に登るわけであって、意志が無いところには行動もありません。
それと同じように、信仰のないところに、良い行為もあるはずはなく、正しい信仰があればおのずと正しい行為に導かれると思います。
信仰と行いを完全に分けてしまうのは、人間の脳と肉体をつなぐ神経を切り離すようなものではないでしょうか。
「新約」は意志であり、「旧約」は行為である…という風に考えるのは、素人臭いかも知れませんが・・・。
体にたとえると、新約は脳であり、旧約は肉体であるといった感じがします。
もちろん、神学的云々は、私にはわかりません。
fms
<tomi>
fms様。
メールありがとうございました。
今のキリスト教は、あまり専門性を打ち出すと、信徒が「私たちには関係ない世界。専門家に任せよう」と逃げてしまうため、「聖書は誰でも読めるんですよ」というような言い方をすると思うのです。
たしかに、聖書は「誰でも読める」そして、「そこから益を受けられる」。クリスチャンは、自分で聖書を読むべきだ。
しかし、同時に、「よほど真剣に勉強しない限り、わからない部分もたくさんある」ということも事実。
どの世界でもそうですが、自分が理解できる部分と、専門家に任せなければならない部分とがあると思います。
この境界線の見極めが大切だと思います。
しかし、残念ながら、専門家であるはずの牧師とか神学者が、「旧約聖書=奴隷化宗教」対「新約聖書=解放宗教」という図式を頭に染み付かせているのが実情で、聖書のどこにも書いていないようなこと信じているんです。
こういった前提を頭の中に染み込ませると、なんでもそのように見えてきて、最後には、「旧約律法無用論」に行き着く。
このサイトで議論して、私のものをかなり読んでいるはずの人が、このレベルの理屈で留まり、トンチンカンなことをどこかの公共サイトで議論し、再建主義は信条否定論だなんてやってのは、私にとってはほんとに理解に苦しむのです。
流してるんでしょうね。自分の考えと違うことは。
それじゃあ、成長しない。
だから、そういう批判精神旺盛な人は、まず基礎から勉強して、頭の整理をつけた上で我々を批判しなさい、って思います。歴史的スタンダードすらも否定しても時間の無駄なので。
2004年2月25日
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