クリスチャンは無意味なもの、理不尽なものから解放されている


<fms様>

私が、ニュースなどを見ていて「嫌だなぁ」と感じるのは、イギリスなどの極端な動物愛護団体の行動と、医学的にも聖書的にも根拠があるとは思えない菜食主義者の主張です。こんなわけのわからない基準に、なんで人間が従わなくてはならないのかと思います。

キリスト教でも、セブンスデー・アドベンティストなどは菜食主義のようですし、その他、禁酒禁煙・禁茶・禁コーヒーなどを命じたり勧めたりする教会もあるようです。多分、異端的な教派ほど、意味のない禁欲主義に走るのでしょう。シェーカー教徒などは、結婚さえ禁じられていたようですね。

動物の肉や、ワインを口にしただけで、悪人呼ばわりされたのでは、たまりません。

もちろん、動物を不当に虐待したり、泥酔したりするのはよろしくありませんが・・・。

私は、奇妙な制限を人間に加えたり、社会生活ではほとんどの人が経験するようなものを禁止したりすることに、異端的な匂いを感じます。

彼らは十戒では満足できないのでしょうか?

私は、日常生活は十戒で十分だと思うのですが。

禁欲主義は快楽主義同様、一種の狂気ではないかと思います。

<tomi>

同感です。

パウロは、禁欲思想について次のように述べています。


もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の基本的な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、(1)
「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに従うのですか。 (2)
そのようなものはすべて、使っているうちに腐ってくるものであって、人間の戒めと教えに従っています。(3)
そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、肉体の苦行における知恵の言葉であり、肉の満足にとっては無価値です。(4)(直訳:コロサイ2・20-23)

ここで、まずパウロは、クリスチャンの立場を確認しています。

(1)クリスチャンは、キリストとともに死んでおり、この世に生きている者ではない。
 クリスチャンは、キリストにあって死人であり、ある意味において、この世に対しては幽霊のようなものである。この世界に属していない。またそれと同時に、クリスチャンは、キリストとともに復活した者であり、天に所属し、天の御座に座っている王である(エペソ2・6)。

だから、クリスチャンは、「この世の基本的な教え」「この世においてABCと呼ばれている教え」つまり「常識」とは無関係であり、それらはクリスチャンに対して何の権威もない。

(2)それゆえ、クリスチャンは、この世の禁欲的な教え「すがるな、味わうな、さわるな」という教えに従うべきではない。世の中では、常識とされている教え、禁欲的な教えには縛られてはならない。
 これは、意味のあるもの、たとえば、アル中患者にとっての酒、ニコチン中毒者にとってのタバコ、その他依存症の人々にとって健康に有害なもの、また健常者の健康を害するものは含まれない。
 ここで言われている禁欲的教えとは、神が人間に楽しむためにお与えになった様々なよい物までも否定するような教えです。
 この当時は、地中海世界一帯に、ギリシャ禁欲主義がはびこっていた。人々は、「霊は善で、肉体は悪」というような教えに惑わされ、肉体の必要を満たすことを嫌悪する風潮があった。
 この世に対して死んでおり、それゆえ、この世の常識に支配されないクリスチャンは、このような「無意味な」禁欲に縛られてはならない。クリスチャンを縛るのは、神の法だけである。

(3)人間の教えは永遠の教えではなく、腐って死滅してしまうものである。今日、古代地中海地方に広がっていた禁欲思想はもはや存在しない。人間が作った戒めや教えは、一過性のものであり、虚しい。このような虚しいものによってクリスチャンは縛られてはならない。
 日本のクリスチャンは、現代日本社会の常識に支配される必要はない。もちろん、人々の目から見て、「無礼」「恥ずべき」と思われることをしてはならない。それは、証のため、人につまずきを与えないためである。
 しかし、その本質において禁欲すべきではない事柄について、人目を気にしたり、人の意見に左右されたりして、禁欲すべきではない。
 
(4)人間が作った禁欲の教えは、「人間の好き勝手な礼拝」つまり、偶像礼拝の知恵である。
もちろん、偶像礼拝はサタン礼拝であるから、禁欲思想はサタンに属する教えである。
異端やカルトほど、信者にいろんなものを禁欲させたがるのは、サタンがそのように望んでいるからである。サタンは、人間をがんじがらめに縛り、奴隷にすることを望んでいる。
エホバの証人が、本来なら助かるはずの人に輸血を禁じて、見殺しにするのは、サタンが人を無意味な教えによって縛り付け、恐怖の中で手も足もでないようにし、彼らを滅びのほうへ導こうとしているからである。
本当の教えは、人間に自由を与える。神は人間の幸せを望んでおられるのだから。
しかし、サタンは、人間を無意味な教えに縛り付けて、一生を恐怖や人間の目の奴隷としたがっている。
サタンに支配されると、文化には、無意味な拘束的習慣がはびこる。
過去、中国には纏足という習慣があった。足をぎゅうぎゅうに縛り付けるのである。小さな足ほど美しい足と思わせて、女性の自由を束縛した。

まとめ:

サタンは、人間を拘束することを望んでいる。聖書に何も記されていない人間の教え、無意味な教会の規則、菜食主義や禁酒主義などの禁欲思想は、サタンに由来するものである。

クリスチャンは、この世の者ではないから、この世のあらゆる理不尽なものから解放されている。クリスチャンは、無意味なもの、理不尽なものから自由に行動することによって、キリストの救いを表現すべきである。

 

 

2004年2月18日

 

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