不良なクリスチャン・コミュニティを離れる必要もある

 


<ストレイ・シープ様>

ご回答をありがとうございました。ディスペンを捨てた学校については大変興味を覚えました。

>私は、「選民意識を持ったままのユダヤ人とつるむと、その傲慢
>が染るから」と考えています。

この見解はとても言い得て妙だと思います。ニンニクの臭いが充満する部屋にいた人は、自分の鼻は慣れているために、外部の人にその臭さを与えていることに気がついていない。病識のない患者は重症だそうですが、そんな感じです。

>「ユダヤ人がなぜ迫害されてきたのか?」という疑問は、「それ
>はサタンがユダヤ人を消そうとしているから」ということだけで
>はなく、「彼ら自身の性向そのものに迫害をされるような部分が
>あるから」と考えています。

おっしゃるとおりですね。ここでも自分が臭いを醸しているために人に嫌われることに気がついていない。いじめられると人が理由もなくいじめる〜と言うわけです。カルトの被迫害妄想と同じではないでしょうか。聖書自身が「彼らは救い主イエスを拒絶し、全世界の人々の敵となっている」と言っています。

昨今のメシアニックを重用する態度は、「ユダヤ人>異邦人」だから、自分のユダヤ人に対する劣等性を認めることにより、ユダヤ人に受け入れられてユダヤ人と同一視されることにより、自分のメンツとプライドを保とうとする巧妙なシカケですね。ここで先生のおっしゃるプライドの伝染が生じるわけです。いじめられっ子がいじめっ子に卑屈なまでにかしづいて、クラスの中で地位を得るようなものです。

>「平和主義や活動は無意味である。むしろ世界で悲劇が起きれば
>起きるほどワクワクする。それはキリストの再臨が近いことを覚
>えるからだ」と言う異常人間

彼らはある種のオタクだと思います。昔「エヴァンゲリオン」とかいう空想アニメがありましたが、あの世界と変わりがない。生身の人を忘れたゲームの世界の住民なんでしょう。だからイラクにおける人の叫びや飛び散る血を感じることができない。司令室にいてシミュレーションゲームをしている司令官達みたいな態度です。自分たちこそは神の指令書(聖書)に忠実であるというプライドに裏付けられています。

日本の伝道においても、「自分の説を受け入れること」=「神を受け入れること」として、自分たちの聖書解釈を植えつけようとする彼らの姿勢は、結局イエスを求める人を排除することになり、多くの人々を福音から遠ざけ、かえって福音の繊細さを傷つけていますね。仮定の話で、もし彼らのようなオタク・クリスチャンばかりができてしまったら、いったい社会はどうなるのでしょうか?この思考実験をするとちょっと怖い感じがします。憂慮すべきことだと思っています。

<tomi>

レスをありがとうございました。
ご説に同感します。

>日本の伝道においても、「自分の説を受け入れること」=「神を
>受け入れること」として、自分たちの聖書解釈を植えつけようと
>する彼らの姿勢は、結局イエスを求める人を排除することにな
>り、多くの人々を福音から遠ざけ、かえって福音の繊細さを傷
>つけていますね。仮定の話で、もし彼らのようなオタク・クリスチ
>ャンばかりができてしまったら、いったい社会はどうなるのでし
>ょうか?この思考実験をするとちょっと怖い感じがします。憂慮
>すべきことだと思っています。

最近、いろいろな聖会や集会に出て思うのは、クリスチャンは、私が大学時代にあったような幅の広さ、寛大さがなくなったということです。

かつては、ディスペンセーショナリズムのクリスチャンでも、寛容で、人の意見をよく聞いて、一刀両断に相手の立場を切り捨てるというような態度がなかったと思います。

しかし、今、どこに行っても感じるのは、自分たちが信じているものを絶対化して、他の意見を心を落ち着かせて聞くことができない雰囲気です。

これは、キリスト教が聖書から離れて、「キリスト教のようなもの」に変わったためだと思います。

つまり、いわばカルト化してしまったということです。

もし、聖書に従っていれば、相手の立場に耳を傾けて聞くという姿勢ができるはずですが、どうも「偏狭な意見に空虚な自信をもち、話し合いもなにもなしに、他の考えを一蹴する」という態度が見られます。

実際に話をしてみれば、教理についても、教会史についても、無知なのは明らかなのですが。

講壇からのメッセージは、自分が理不尽なことを言っていることを正当化するために、「みなさん、聖書を研究すると暗くなりますよ」、「聖書ではなく、聖霊なのです」といった内容です。

罪人でも救われるということを強調したいのか、わざと汚い言葉を吐いて、不良のような態度を取る人もいます。

メッセージはいくらかまともだなあと思っても、まったくいかなる根拠もなしに、「○○という考えは、あれは、どうしようもない考えで、サタンの教えだ」とか決め付けるのだが、相手の言っていることを落ち着いて聞く姿勢がまるでない。

それに対して質問すると、どやされるような雰囲気があって、質問もできない、というような偏狭な姿勢が見える。

「自分たちが正しい」と主張することそのものは間違いではない。ただし、そこにはきちんとした聖書的な裏付けと、教理や歴史に関する正当な幅の広い知識が背景になければならない。

しかし、私は、彼らがそんなに勉強しているとは思えないです。

こういう、偏った知識にこりかたまって、それを頑固に主張し、他の意見や、広い知識を背景にしないような考え方を推し進めて、信徒を自分の軍門の中に閉じ込めて、「他の教派の本は読むな」と鎖国状態を作るというのは、まさしくカルトそのものなわけです。

よく私のHPも中傷されますが、私は、「じゃあ議論しましょうか?」と言います。

しかし、その中傷者は、「いや、議論はやめときましょう」と言う。

「じゃあ、中傷するのを止めてもらいますか?あなたは我々について間違った情報を流していますから。」というと、「はい。」と一応は返事しますが、しばらくしてHPを見ると、またも、中傷のオンパレード。

「我々は正しい」という人々の中で、カルトか非カルトかを区別する基準は、「批判者に理を尽くして説明できるか?」ということにあるんですね。

それができないし、するつもりもないならば、じゃあ、中傷をするな、と言いたい。

こういう卑怯者が牧師と呼ばれて講壇から語っているということそのものが間違いなんです。

私の言葉の一部を取り上げて、「再建主義は日本を王制にしようとしている」と言う人がいました。

また、「天皇制主義者だ」とも。

言葉の一部を取り上げて批判するなんて誰でもできるんです。

彼らがクリスチャンではない証拠は、「神を恐れていない」という点にあります。

「偽証してはならない」というのは、十戒の中でも中心的な戒めです。なぜならば、宗教契約も社会契約も約束の上に成り立つからです。

平気でウソをつける人々が社会の大多数を占めれば、社会はめちゃくちゃになります。

だから、偽証者には厳しい裁きを行われる。

しかし、実際は、ウソをついても反省することなく、開き直る人々が教派のトップに立っていることが多いのです。

私は、「この人は、今まで神の恐ろしい裁きを経験しないままに、牧師になったのだろうか?」と驚いてしまいます。

神に甘やかされたのでしょうか。

ちょっと弁が立って、人を笑わせるテクニックをもっていれば、人気が出て、「先生、先生」と崇められる。人も増えてくる。献金も多くなる。キリスト教界の中で大物と呼ばれる。

しかし、この過程で、義に関して厳しい訓練を受けていないので、自分の教えと違うことを言う人間が現われると、陰謀を尽くしてその人を追い出す。

普段言っていることと、まったく違うことをやるので、その時、信徒はびっくりするわけです。

結局、今の教会というのは、やくざ組織と同じような感じで、牧師を組長とする○○組のようなものを作っているんじゃないか、と思えてきます。

私は、自分がこのような牧師になっていて、本筋から離れていると気づいて、反省するならば、まず、「今のキリスト教コミュニティから離れよ」と言いたいです。

今のキリスト教コミュニティの常識を受け入れると、知らず知らずのうちに自分もカルトになります。

救われてクリスチャンになった時には、純粋な気持ちを持っていた人も、神学校に行って、牧師社会というものに触れていくと、結局、縄張り争いをやるヤクザ組織とあまり変わりがないことに気づきます。

そこで、「この社会で生きていくには、○○先生から嫌われないようにしないと」と考えて、神に対する信頼を捨てて、牧師社会という偶像に信頼するようになれば、自分もその仲間になります。そして、自分の下につく、後輩たちにも、この社会の不文律を押し付けて、同じような人間を再生産していく。

このような悪の下降スパイラルを断ち切るには、彼らの仲間にならないこと以外に方法はないように思えます。

結局、我々を中傷する人々が恐れているのは、神ではなく、「教団の牧師仲間」なのです。

真理を主張すると仲間はずれにされるなら、そんな仲間に加わらないのが一番です。

仲間に入らなければ、教会の人数とかにこだわる必要もない。

もし、自分の上部組織が、自分に対して「礼拝出席人数は伸びたか?えっ?横ばい?かえって減っている?何をやってんだね、君は!」と言ってくるならば、そんなことを言わない人間の下についたほうがいいでしょう。

教会は、会社と違うんですから。

自分だけで単立教会を作って、2,3人で礼拝したほうがいいでしょう。

自分の一度限りの人生を「教団の教勢」のために捧げても、神から評価されないでしょう。

神から評価されるのは、「聖書にいかに忠実だったか?」という一点なのですから。

我々を中傷する人々は、このあたりの理屈は十分承知なのです。

後ろめたさを十分に感じている。この罪悪感を持っているがゆえに、かえってそれを無視してやっている自由人を非難し、貶めたいという願望が働くというのは、結局「妬み」なんです。

心が素直な人間は、「いいなあ。自分も自由にものを言える立場になりたい」と傍観するだけですが、根性が捻じ曲がっている人間は、自由人を揶揄し、引き摺り下ろしたいと願う。

彼らは容易にサタンに憑依されるから発言するたびにサタン臭が漂ってくる。イエスを殺害した人々と同じなんですね。

積極的に批判相手と対話しようともせずに、インターネットの2チャンネルのようなサイトで、うっぷんを晴らし、批判相手からつっこまれると、逃げ回るような人間は、箸にも棒にもかからないつまらない連中なのだと思います。

 

 

2003年12月26日

 

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