競争は悪か?
(1)
何年か前にある商社の駐在員が先物取引で大穴を開けてそれを大蔵省もぐるになって隠蔽したという事件があった。
アメリカ政府は、この事実を重くみて、かなり厳しい処罰を施した。
これは、日本の社会とアメリカの社会との違いを浮き彫りにしている。
アメリカはフェアであることを大切にする。自由な競争を奨励するには、公平さはどうしても欠くことができない。
オリンピックの人気は、競技を主催する人のフェアな裁量があり、それが信頼を得ているからである。もし、ある特定の国に偏って判定が下るならば、人気はがた落ちになるだろう。
すべての参加者を同じスタートラインに立たせて、同じ条件のコースを走らせ、同じ精度の時計や尺度を用いるのでない限り、オリンピックを見たいと思う人はいなくなるだろう。
アメリカのやり方は、同じチャンスを誰にでも平等に与えるということだ。そのため、秘密の画策とかには厳しい審判が下る。大蔵省と業界とが結びついて特別な恩恵を特定業者に与えるというような秘密主義は厳禁である。
もちろん、アメリカにもそのような部分がないとはいえないが、しかし、物事の考え方の基本は、自由に競争させ、「公平」に機会を与えなければならない、というものである。それゆえ、アメリカは、「ルール違反」を厳しく罰する。
もしルール違反を罰することがなければ、自由競争のシステムそのものを破壊することになる。このシステムを大切にしようとすれば、厳重な刑罰は避けられない。
その点、日本は政府と業界の馴れ合い、天下り、談合、そういった自由競争の原理から外れたことが常態化していて、ルール違反に対する処罰も重くはない。このように競争原理の違反を黙認し、その排除を目指す社会は、実質上社会主義である。
しかし、ルール違反が裁かれないオリンピックの人気が落ち、スポーツ界全体の地盤沈下が進むのと同じように、競争ルールにおける違反を裁かない社会は、次第に地盤沈下して、最後には死滅してしまうだろう。
日本社会は、締めるべきところを締めないで、締めなくてもよいところを締めている「的外れ」な社会である。
これは、罪の特徴である。罪の原語「ハマルティア」は「的外れ」という意味だ。
失敗した社員や企業家に失敗者の烙印を押し、談合業者や天下りをする役人の後ろ暗い行為を黙認する。
これではだめで、我々は、正々堂々と戦って敗れた社員や企業家にはその健闘をたたえて、再起のチャンスを与えるべきだ。しかし、談合や天下りをする人々に機会を与えてはならない。
日本がキリスト教化されていないことの弊害はこのような社会の基礎的な考え方に現われているのである。
(2)
まず、「競争は悪だ」「失敗することは悪だ」という考え方を捨てよう。これは、マルクシズムの考え方であり、サタンの思想だ。
サタンは競争を嫌い、失敗することを悪と見ている。
それゆえ、競争を排除させ、失敗する可能性を排除させようと人々を誘惑しているのである。
競争が排除され、失敗が排除されれば、当然のことながら、闇市が形成される。経済にしろ、政治にしろ、あらゆる領域において、「裏の世界」が生まれる。
なぜならば、この世界の実体は「競争の世界」だからだ。競争を排除した世界は、あくまでも虚構の世界である。だから、どうしても現実との調整を取るために、裏の世界が動き出すということになるのだ。
現代のクリスチャンは、ヒューマニズムに影響され、「競争を避けること」を正義と見なすようになってしまった。
しかし、競争を避けるならば、人為的な計略がはびこることになるのだ。
神は、競争の世界を創造されたのである。努力し、自分を磨かない怠惰な人間は排除されるようにこの世界はできているのだ。
このことを理解した時に、クリスチャンもノンクリスチャンも、正しい考え方が身につくようになるだろう。
2004年3月13日
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