科学至上主義者へ

 


現代人は、「科学的に証明されないと、認められない」とよく言うが、これは、「科学的に証明されたもののみが正しい」という『科学至上主義』という一つの宗教である。

『科学至上主義』が正しいかどうか誰も分からない。

世の中には科学で証明されないが真理だと言われているものが無数に存在する。

しかし、近代になってクリスチャンまで、この『科学至上主義』に騙されて、聖書までも科学で評価しようとした。

しかし、聖書は、評価の対象ではなく、「信じることを命令された書物」なのだ。

もし聖書まで評価の対象とするならば、その評価者は、「俺の検証能力が聖書の証言よりも上だ」と主張していることになる。

しかし、誰も「俺の検証能力が上だ」という命題を証明できないのだから、それも一つの主観である。

聖書の神は、「私が聖書の中で述べたものを有無を言わず信じなさい」と命令している。これは、聖書の神の主観である。

また、近代人は、「いや、私が科学的に検証したもの以外信じない」という。これも一つの主観である。

どちらが正しいか証明なんかできない。

となれば、最後に何がものを言うか、というと、どちらに力があるか、なのだ。

聖書に対して「俺の主観の方が上だ」という人間に対して、神はその絶対的な力を見せつけられる。

たとえば、共産革命の失敗のように、人間の知恵がいかに愚かか、を歴史を通じて、人間に明示される。

または、その科学至上主義の人間の人生において、とことん試練と苦悩を与えて、ご自身の主権を徹底的に悟らせる。

または、もう見捨てているから、好き勝手なことを信じさせる。

「なぜ疑うのか。」(マタイ14・31)

 

 

2004年1月12日

 

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