フルプレテリズム批判2


フルプレテリズムは、マタイ5・17において「天地が滅びない限り、律法の一点一画も廃れることはない」とあるのを、

聖書において「天地は滅びる」という表現は紀元70年のユダヤ滅亡を指しているのだから、紀元70年以降、律法は廃れたと考えられる、と言う。

しかし、これは、聖書の一部だけを取り出して教理を作り上げる異端の手法だ。

聖書の他の個所を見て欲しい。どこに律法が廃棄されたと書いてあるだろうか?

(1)
むしろ、パウロは、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)と述べている。

これに対して、フルプレテリストはどう回答するのだろうか。

恐らく、「ああ、これは紀元70年以前の言葉でしょう。パウロは、紀元70年まで、律法は確立されると言っているのです。」とでも言うだろう。

おかしくないか?

「信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。」と自問し、そして、「絶対にそんなことはありません。」と断言したのだ。

このような強い断言の後に、「でもね。それは70年までのことだよ。」と言うか?

「(信仰は、)律法を確立することになるのです。」と断言した後で、「ただし、紀元70年までね。」と付け加えるか?

我々は、このような断言が行われたということは、律法に永遠の効力をもたせたと受け取らねばならないのではないか?

もし、そのような意図がなければ、断言などしないはずだ、と考えるべきではないか?


(2)

ヤコブは、次のように言う。

「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。」(ヤコブ4・11)

ヤコブは、「律法をさばくな」と命令している。「さばく」の原語κρινωは、「さばく、判断する、支配する」(織田『新約聖書ギリシャ語小辞典』)という意味である。

「律法をさばく」とは、律法の上に立つということである。律法の上に立つとは、すなわち、自分が神になるということだ。

律法を支配し、それに対して判断を下し、「律法を神からの絶対命令としてではなく、自分で取捨選択できる対象と考えること」である。

ここで、明らかに、新約時代のクリスチャンは、律法を廃棄したり、自分の好みに応じてそれを選択し、捨てることはできない、とはっきりと宣言されているのだ。

でも、フルプレテリストはこう言うだろう。

「それは、紀元70年までのことです。紀元70年以降は、律法をさばくことができるようになったのです」と。

これこそ、異端の手口だ。

異端者の背後にはサタンがいる。

サタンは、聖書の御言葉を反故にすることを望んでいる。

しかし、聖書信仰に立つクリスチャンは、聖書のどの個所も神の絶対命令だ、と考えるために、そのままでは、彼らの信仰を崩せない。そのために、彼は、時代とか時間を設定し、御言葉に有効期限を設けるのだ。

「これは、この時代だけの話で、今は違う時代なのですから。」と。

(3)
フルプレテリストは、「私たちはセオノミーを否定しません。私たちもセオノミストです」という。

しかし、彼らはセオノミーを信じていない。なぜならば、セオノミストとは、「律法の永続的効力を信じる人々」のことだから。

そして、セオノミストは、その根拠を、「神の不変性」に置いている。つまり、神が永遠に変わることのない絶対者であるから、法も変わらない、と考えるのだ。

しかし、フルプレテリストは、律法を70年までに限定し、その代替品として、「キリストの律法」を持ち出す。

しかし、キリストの律法とは何か?キリストが律法と異なる法でも持っていたとでも言うのか?

「キリストの律法」について触れているガラテヤ書を見てみよう。

「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ6・2)

ここで、パウロが、モーセ律法と異なるものを提示しているのではないことは、その文脈の前の部分を見れば分かる。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5・22-23)

この「律法」とは何か?これは、「キリストの」という形容詞はついていない。ということは、「モーセ律法」以外ではないのだ。

ここで、パウロが「モーセ律法を基準として提示している」の明らかだ。

同一の文脈において、いかなる但し書きもつけずに、「モーセ律法」と「キリストの律法」を「基準」として提示しているということは、両者の間にいかなる対立も区別もないことを表しているのだ。

彼は、「モーセの律法はこう述べているが、キリストの律法はこう語っている」というような対立的な関係を、ここにおいてまったく述べていないことは明らかではないか。


(4)

さらに、フルプレテリストの律法観が間違いなのは、もし、パウロがモーセ律法の効力を紀元70年までの期間に限定していたとすれば、ここで、彼が奨励している「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」にも同じ制限を適用するということになるからだ。

つまり、パウロは、御霊の実である愛、喜び…を奨励する根拠として律法を持ち出したが、律法の効力が70年までであれば、70年以降は、これらを奨励する根拠は失われるため、これらの徳目も効力を失うということに必然的になる、ということだ。

鋭敏な読者はおわかりだろうが、このような論理は、新約聖書すべてに適用できることになる。

なぜならば、新約聖書の戒めの基礎は、モーセ律法にあるからだ。モーセ律法の上に築き上げられている新約聖書のすべての教えは、モーセ律法の無効化を主張することによって、効力を失うことになるのだ。

フルプレテリズムは、モーセ律法の効力を70年までに限定することによって、新約聖書の倫理をすべて崩壊させる。

これを異端と呼ばずに何と呼ぶのだろう。








 

 

2004年2月25日

 

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