救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する20
<Y>
これまでの議論を通して、次の点が明らかになってきました。
1.男女について
1−1 超性別的経綸は存在するか否か?
1−2 「キリストにあって男も女もない」の正しい解釈は?
1−3 上記の解釈にとって鍵となる「ベール問題」の答えは?
1−4 ベール問題を解く鍵となる「後期ユダヤ教の天使論」
わたしの立場としては、新約聖書正典は、その背後にある古代ローマ社会、後期ユダヤ教の神学、初代教会におけるユダヤ人共同体と異邦人共同体の対立などを考察しなければ、正しい解釈を導き出すのは難しいということです。
<T>
まだ分かっておられないようですね。
私は、「新約聖書正典は、その背後にある古代ローマ社会、後期ユダヤ教の神学、初代教会におけるユダヤ人共同体と異邦人共同体の対立などを考察しなければ、正しい解釈を導き出すのは難しい」ということ自体を否定して<おりません>。
私が言いたいのは、「それらは『参考』にはなるが、聖書の中においてその背景が十分に説明されていない限り、『論拠』にはならない」ということです。
たとえば、「死人のためのバプテスマ」とパウロが述べている個所があり、古来議論を呼んでいます。
この「死人のためのバプテスマ」は有効であるとして、「死んだおじいちゃんのためにバプテスマを受けなさい」という教会もありますし、それは根拠が明白ではないから否定する教会もあります。
前者の立場に立つ教会が、「死人のためのバプテスマは、初代教会において広く行われていたから」という理由を出したところで、その背景知識が正典の中に含まれていない場合、それを十分な根拠とはできません。
なぜならば、その背景知識は、『霊感されていないから』です。
もし「死人のためのバプテスマ」を証明したいのであれば、聖書の他の個所、つまり、『霊感されている』個所を引用しなければならない。
<Y>
>ベール問題は、「キリストにあって男も女もない」という聖句が、超性別的経綸を
>意味するのかどうかの解釈を左右する、重要な問題です。
しかし、富井さまとわたしとでは、聖書解釈に対する手法が異なっているため、おそらくは、今後これ以上議論を続けても、ベール問題の答えは決着できないであろうと想像します。
そこで、ベール問題から派生した、次の問題。
2.聖書解釈の手法
2−1 聖書は、ひとつひとつの聖句が命題的真理であるか?
2−2 聖書は、背景にある歴史的文化的文脈に即して
解釈すべきであるか、それとも、聖書テキスト内部に
おける比較対照によってのみ解釈すべきであるか?
・・・が、浮上してきます。
しかし、富井さまは、おそらく、「聖書の聖句はひとつひとつが命題的真理であり、聖書テキスト内の比較対象によってのみ解釈すべきである」という立場を、絶対譲られないと思います。
ですので、この問題は、スキップすることにして、さらなる次の問題。
3 律法の二つの効用
3−1 律法には「刑罰としての律法」と「導き手としての
律法」という、二重の効用が存在するか?
3−2 二重の効用が存在するとした場合、「刑罰法」と
「規範法」の区別をどのように判断するのか?
3−3 「刑罰法」がキリストの十字架によって廃棄されたと
仮定した場合、「規範法」に基づいて司法を構築し、
死刑を含む刑法を決定することが可能か?
このような問題について、今後議論してみたいと思います。
<T>
残念ながら、「超性別経綸」の区別について「ガラテヤ3・28が根拠にならない」、「聖書は聖書によって解釈するという原理を尊重する」という私の主張に対して反論も、十分な根拠を挙げて説明もされていないため、議論になっていません。
そもそも、山谷様は、最初に「救いに関する知識においてのみ聖書は絶対的な権威がある」と仰いましたが、その後、山谷様は、自分のご発言に対していかなる訂正もなく、「救いに関する知識以外についても」聖書を論拠としてご自身の説を主張しておられる。
こういった一つ一つについて、きちんと自分の立場にケリをつけておられないので、「聖書解釈に対する手法が異なっているため、おそらくは、今後これ以上議論を続けても、ベール問題の答えは決着できないであろうと想像します。」という言葉に大きな失望を覚えます。
つまり、山谷様との議論は「不毛ではないか?」との疑いを払拭できないというのが偽らざる感想です。
2004年1月8日
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