救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する18
<Y>
男と女について
「キリストにあって男も女もない」という新経綸のもとにあるにもかかわらず、パウロは、女性のベール着用を否定せず、また、「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません」とも言っています。
だから、女性解放運動、男女協同参画社会は、否定される、というのが再建主義の考え方のようです。
<T>
2つの間違いがあります。
(1)「『キリストにあって男も女もない』という新経綸のもとにあるにもかかわらず」
私は、この聖句は、「超性別経綸」を意味していない、と主張してきました。
(2)「女性解放運動、男女協同参画社会は否定される、というのが再建主義の考え方のようです。」
現在のウーマン・リブ運動は、聖書的ではない、と言いましたが、広い意味での「男女協同参画社会」を否定したことはありません。
どうか、過去の掲示を読んで私が述べた真意をご理解ください。
<Y>
「キリストにあって奴隷も自由人もない」という新経綸のもとにあるにもかかわらず、パウロは、奴隷制度を否定せず、また、「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心をこめて、肉による主人に従いなさい」とも言っています。
そうしますと、奴隷解放運動、万人に基本的人権が保障された平等社会は、否定される、というのが、再建主義の考え方になるはずです。
<T>
最初の文章で、誤解しているので、誤解に基づくこの類推もまったくの誤解になっています。
(1)
繰り返しますが、ガラテヤ3・28の「キリストにあって奴隷も自由人も、男も女もない」というのは、文脈から考えるならば、「そのような外面的な区別は関係なく『みな』信仰によって救われる」ということを述べた個所であって、「経綸」について述べた個所ではないのです。(*)
(*)「じゃあ、ユダヤ人もギリシャ人もない」という文句も超民族的経綸について述べていないか、といえば、必ずしもそうとは言えない。というのも、この文脈が、「割礼派の人々の主張『割礼や律法を受けなければ救われない』というのは間違いで、我々はみな信仰『のみ』によって救われる」ということだからです。
(2)
パウロは、その他の個所において、「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。」(1コリント7・21)と述べており、奴隷制を是認しているわけではないということが分かります。
再建主義が奴隷制を是認しているなどということはまったくない、ということをここで、『ハッキリ』宣言しておきます。
2004年1月8日
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