救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する15
<Y>
>非常に難解です。
>この難解さは、聖書を素直に受け取らずに、自分のパラダイム
>に合わせて解釈しようとしているからであると思われます。
難解だと思われるのは、新約聖書のパラダイムを十分理解しておられないからではないでしょうか?
律法が仲介者である天使によって定められた。
天使が律法の厳格な遵守を監視している。
天使を困惑させないためにベールをかぶる。
こうした概念は、新約聖書成立当時に、初代教会の中のユダヤ人クリスチャングループの中で、世界観的前提として存在していた後期ユダヤ教の神学の中で論じられているものです。
後期ユダヤ教のパラダイムを前提として、パウロは持論を展開しているのですが、残念ながら、宗教改革以降、プロテスタント教会は「天使論」の部分を教義学の中からほとんど削除してしまいました。
こうして、パウロ神学の中でポイントとなるところにしばしば登場する天使を、ほとんど無視するかたちで解釈するようになってしまったのです。
しかし、現在の教会では、かぶり物をかぶらないで礼拝するという慣行はどこにも見られないのだから、それを見て、自分で判断しなさい、と言っているのです。
ベールをかぶるのは、天使に対する配慮であって、キリストに対する配慮ではありません。
もし、キリストに対する配慮なのであれば、「キリストに対して」と言ったはずです。
また、男に対する配慮なのでもありません。
なぜなら、ベールを着用しなければ「男の栄光を現す」ことになるからです。逆にベールを着用することは、男の権威を覆うことを意味するのです。
この論理は、後期ユダヤ教神学に示された天使の役割と機能を了解すれば、すんなりとわかるものです。
キッテルの新約聖書神学辞典をお読みになると、この辺の論理展開のニュアンスがよく説明されています。
<T>
(1)
私も今までいろんな注解書を読みましたが、山谷様のような解釈をはじめて出会ったので理解できなかったのです。
私の手持ちのいくつかの注解書では、天使については、諸説があるのでこれといった断定を行えず、そのため、軽く流しています。天使論を中心にこの個所を解釈しているものは一つもありませんでした。
たとえば、「新聖書注解」(いのちのことば社)で宮村武夫先生は、
「<御使い>については、(1)堕落天使と見て、誘惑とならないため、(2)礼拝の秩序を見守るコリント教会の指導者あるいは男性信者一般と見て、彼らが女性の美しさに気をとられないようにとの具体的勧告と見る、(3)御使いたちは、男女の創造を初めから目撃し、男と女の立場、状態が正しく維持されているかどうかに関心を持つ、(4)公同礼拝に御使いもともに参加し、秩序を見守る(詩138・1、1テモテ3・16、黙3・5)など、種々の説がある。これらのうち、(2)はその具体性のゆえに、(4)は聖書全体との自然な調和のゆえに重視すべき説である。」
「女性の頭は男性であり、男性の頭はキリストであり、キリストの頭は神である。これは至高者なる神を頂点とする権威の秩序である。またパウロは付け加えて『男女の相互関係について言えば、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られた』と言い、『神の秩序を知る他の理知的被造物との関係については、彼女らは被り物をつけるべきだ』と言う。
それは、御使いのためである。御使いは、贖いの時代において神の道の目撃者であり、この驚くべき介入が作り出す効果の目撃者である。また、パウロは、他の個所において、過去の歴史について言及している。男は欺かれなかったが、女は欺かれ、最初に罪を犯した。また、この個所では、『男が女から取られたのではなく、女が男から取られた』と付言している。
…そのため、男は頭に被り物をつけるべきではない。彼は権威を表し、(その立場のゆえに)神の栄光を帯びているからだ。女性は、頭に被り物をつけるべきだ。それは、彼女が男に従属していることのしるしである(彼女の被り物は、彼女が権威に従属していることのしるしである)。
…最後に使徒は創造の秩序に訴えている。男の髪の毛と対照的に、女の栄光と飾りであるその髪の毛は、『女性は、[教会において]男性のように大胆に振舞うべきではない』ということを示している。彼女の髪の毛は、被り物として与えられているがゆえに、『謙遜と服従こそ、女が持つべき相応の資質であり、女に特有の栄光である』ということを表している。」(John Darby's Synopsis of the New Testament, "1 Corinthians Chapter 11")
2004年1月7日
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