教えに召されている人々は相続財産を持ってはならない
レビ族は、イスラエルの宗教の中心であった。彼らは祭儀と教えのために「のみ」召された人々だった。
そのため、彼らは商売や農作業などをしてはならず、そのため、土地への割り当てがなかった。
「レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。」(申命記18・1)
イスラエルの民族的生命は、教えにあったので、レビ族が堕落すれば、イスラエル全体が堕落することになる。だから、レビ族は、土地や物などから自由になる必要があった。
今日でもそうだが、教会の牧師が商売や金儲けについて考え出すと、教会は堕落する。教えそのものに対する関心が奪われ、霊的にボケてくるからである。また、人を集めるために教えを軽んじるようになるからである。
それゆえ、教会の牧師や伝道者、神学者たちは、世俗的利益を気にしたり、世俗の仕事に心を煩わせるべきではない。ある意味において、彼らは浮世離れしていなければならない。
イエスは、伝道者に「職や人間関係を捨てて」「手ぶら」で行け、と言われた。
「また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。『主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。』ところが、イエスは彼に言われた。『わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。』」(マタイ8・21−22)
「胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」(マタイ10・9−10)
しかし、パウロがそうであったように、教会の人々の霊的な理解力が伴わず、そのため、教職者が献金で生活することがつまづきとなるような場合がある。
そのような場合は、牧師や伝道者たちはアルバイトせざるを得ない。
霊的な事柄の重要性を理解できない人々は、まだ霊的な知識の大切さを知らず、それが人間の生活から本当に奪われた時の悲惨さを知らない。だから、牧師や伝道師の仕事を一段低く見てしまうのである。
堕落した時代において教職者は苦労しなければならない。
しかし、レビ人と同様、教職者は、神の世界観を教える極めて重要な働きをしている。信徒が立つも倒れるも、彼らの肩にかかっている。
神はこの世界観が純粋に聖書的でありつづけるために、彼らに相続財産をお与えにならない。
そして、彼らはそれを求めてはならない。
レビ人と同じように、彼らは、自分を完全に、祭儀と教えにのみ使用される「神殿の聖具」と考えねばならない。それ以外のことに自分の人生を使ってはならない。
2003年09月29日
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