自然主義は非聖書的である


<亀井様>

アルミニウス主義とエラストゥス主義

広瀬薫牧師のIMCによれば、以下の通りである。
<http://members.jcom.home.ne.jp/tamach/watanabe/14B.html>
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アルミニウス派には教会を国家権力の下に置き、国家の管理のもとで教会の規律を緩和したものにしようとするエラストゥス主義が入っている。

この考えはアルミニウスにも、その後継者、同調者にも共通する。法学者として有名なフーゴ・グロティウスもこの考えである。したがって、アルミニウス主義はチューリッヒの人文主義的傾向の系列にある。
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一方、フーゴ・グロティウスに関しては、下記URLから引用する。
<http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/premodern/premodern05.html>
彼の根本にあるのは、〈自然法〉という概念でした。彼は、神や人による任意の〈神定法〉や〈国定法〉・〈万民法〉に対して、絶対の〈自然法〉を区別します。すなわち、〈神定法〉は、神が自由に定める法であり、〈国定法〉は、国が多数決または主権者によって定めた法です。また、〈万民法〉は、人類一般の利益ためのすべての国における共通の法および国家間の法です。これに対して、〈自然法〉は、社会性という人間理性の自然本性に基づくものであり、もともとはやはり神によるとはいえ、すべての人間に普遍であり、もはや神にも変えられません。そして、この〈自然法〉は、ある行為が社会性という人間理性の自然本性と合致するかどうかで、その行為が正義かどうかを判断します。このような〈自然法〉の再発見によって、彼は、「近代自然法の父」とも呼ばれます。
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ドルトレヒト教会会議によって異端宣告されたアルミニウス主義とアルミニウスの弟子グロティウスですが、その思想は、今もしぶとく生き残り、根深く福音主義の根底に巣食っていると言えるのではないでしょうか。


<tomi>

御解説で、アルミニウス主義に毒されると、「自然法」にも毒されることがよく分かりました。

「自然を基準と見る」というのは、ある意味において異教の証拠です。

異教は、「自然を無垢」と見ます。

異教においてお供え物が行われるのは、人間の自然の状態だけではなく、人間の労働も生来無垢である、という信仰があるからです。

しかし、聖書は、すべての供え物を捧げる前に、罪の犠牲を捧げて、自分の罪を悔い改め、供え物をまず血で清めなければならない、と命令しています(いやそれどころか、律法や聖所、祭壇そのものすらも血で清めねばなりませんでした)。

ここに現われているのは、「神は、自然に存在するすべてのものが堕落しており、そのままでは神の受け入れられる状態にはない」という思想です。

「すべてがキリストの血によって贖われなければならない」のです。

すなわち、「キリスト」という「唯一の道」を通さないいかなるものも汚れている、ということです。

自然法思想や自然主義は、「この世界を堕落したものと見ない」異教の世界観に基づくものであり、それゆえ、クリスチャンはそれを退けなければなりません。(*)


(*)

コロサイ1・20において「キリストが天地にあるいっさいのものを神と和解させてくださった」とありますので、「法的に」世界は清められています。

しかし、「実際に」はそうではありません。実際の和解は、世界に存在するすべてが神の法にしたがい、再構成されるときに実現します。それゆえ、この再構成の働きは、和解の働きでもあります。

世界の諸国民を弟子化し、彼らが神の法に従って生活する時に、はじめて「実際に」世界は和解し、清められます。

これは、日本の国籍を取った外国人のようなものです。「法的に」日本人でも、「実際に」は言葉も習慣も違うところから来たので、まだ外国人です。しかし、時間がたって日本語も上手になり、習慣にもなれてくれば、「実際の」日本人に近づきます。

「自然」は十字架によって「法的に」清められました。しかし、「実際に」はそうではありません。それゆえ、実際に清められていないものを基準として持つことは不可能であり、それゆえ、自然法を聖書律法よりも優先する立場は、間違いなのです。

 

 

2004年3月3日

 

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