聖書は二重契約説を教えている
<亀井様>
契約神学と(中世〜改革時代の)自然法
※「自然主義は非聖書的である2」で<亀井様>として引用されている文章は、「アルミニウス主義とエラストゥス主義」で引用したグロティウスに関する解説サイトからの引用なので、決して私の思想ではありませんのでご注意下さい。(汗)
で、ですね、富井さんの
「二重契約説否定」→「自然基準説」→「自然法」→「聖書律法否定」→「世俗領域の自律」→「全領域の自律」の仮説に関してですが、
渡辺信夫氏の「プロテスタント教理史」講義録から「二重契約」と「自然の法」についての関係を抜粋引用致しますので、ご参考頂ければ幸いです。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-≪以下引用です≫=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
(3)ウルジヌスの契約観
1.契約思想の現われた書
それまでの神学の契約理解に大きい進展をもたらしたのはウルジヌスである。アダムにおいて初めの契約があったと認め、キリストにおける新しき契約との対比を考える。改革派の契約神学はここで形を整える。
ハイデルベルク信仰問答(1563) には「新しい契約」という語彙のある問79においてすら契約神学の思想は現われていない。ただ僅かに問19で、福音が最初楽園で啓示されたという所で、ほのめかしている。その思想を抑制し、あるいは抑制させられたのである。
ハイデルベルク信仰問答を書く前1561年に作った「カテケーシス、スンマ・テオロギアェ」(あるいはカテキスムス・マヨールと呼ばれる)と、翌年の「カテキスムス・ミノール」及びその後の著作に現われる。カテキスムス・マヨール第10問では次のように言い表わされる。
「神の律法は何を教えるか」。「神が創造においてどのようにして人間との契約に入りたもうたか、人間は如何なる契約によって神に仕えるようになるか、また神は新しい恵みの契約を始められてのち人間から何を要求したもうか。換言すれば人間は神によって如何なる者として、如何なる目的のために立てられたか、つまり如何なる状態に回復されるか、また、神と和解した者は如何なる契約によってその生活を整えるべきかである」。
36問ではこう言われる。「律法と福音の相違は何か」。「律法は自然の法を内容とする。これは創造において神に提起されて人間との間に結ばれたが、人間にはその本性(自然)によって知られるものである。これは我々からは神に対する全き服従を要求し、この契約を守る者には永遠の生命を約束し、これを全うしない者には永遠の罰を与えると威嚇する。しかし、福音は恵みの契約を内容とする。すなわち、これの存在は自然的には知られず、律法の要求する神の義はキリストにおいて成就され、我々における回復はキリストの御霊によってなされたものとして我々に示される。そして、これはキリストを信じる者に、キリストの故の恵みによる永遠の生命を約束するのである」。
このように「業の契約」と「恵みの契約」の二重契約が提示された。しかし、信仰問答の制定に当たっては契約神学を主張していない。
2.二重契約の思想の源流
i.アウグスティヌスや中世からある自然と恩寵(恵み)の二大原理は二つの契約の考えのヒントになっていると思われる。中世のスコラ神学によれば、アダムは自然と恩寵あるいは超自然の二重状態にあった。ここから、恩寵の法と自然の法の二つの法を考える考えになる。業の契約は自然の法として理解される場合が多い。
ii. ルターにおける律法と福音の二大テーマは契約神学に何らかの影響を与えていると思われる。業と恵みの対照を把握するのはパウロ的−ルター的発想である。
iii.カルヴァンは旧き契約と新しき契約を分離はしないが対比させて捉えた。これの転化が二重契約の思想になる。
iv. 楽園における初めの契約の考えには予定論におけるスープララプサリアンの「堕落前」という概念が作用していると思われる。
v. アダムにおける、あるいは最初の人における自然の法というメランヒトンの考えも作用しているが、自然法と最初の契約の同一視については考察は深められていない。
vi. セバスティアン・カステリオ(1515-63)の考えがウルジヌスに作用していると見る見解もある。すなわち、彼は予定論でカルヴァンと険しく対立したが、予定の一方性、無条件性に対し、アダムにおける相互的、条件付きの語り合いを論じようとした。しかし、カステリオがここに契約概念を持って来たとは言えない。また、ウルジヌスは厳格に予定論を唱えているのであるから、その考えと矛盾するカステリオの影響を受け入れたと見るのはかなり困難ではないか。
vii.非常に古い時代からdispensation, あるいはeconomy (経倫、計画)という考えがある。救済史を区分して、例えば、キリスト以前、キリストの時、きたるべき時というふうに位置付ける。古い時代ではイレネウスが代表であろう。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-≪以上引用でした≫=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
尚、引用に関する全文は、広瀬薫牧師のIMCで読むことが出来ます。
http://members.jcom.home.ne.jp/tamach/watanabe/15B.html
<tomi>
<亀井様>としてしまったので、亀井様の言葉のようになってしまい、申し訳ございませんでした。
大変参考になりますが、本質的には、この文章は、二重契約説の反論ではないようです。
(1)
ディスペンセーショナリズム(及び今日のキリスト教界全般)が、律法と福音を対比させ、それらを「自然」と「恩寵」の二分法の図式に当てはめるのは間違いです。なぜならば、律法はけっして「非恩寵」ではなかったからです。律法は、「秩序正しい自由な生活に導きいれるための恵みの手段」でした。
これは、たとえば、自動車運転者に与えられた交通法規のようなもので、「これを守りなさい。そうすれば、あなたがたは、自由に安全に通行できます。」というような「自由と安全のための法律」でした。
ディスペンセーショナリズムは、これを勘違いして、「律法は人々を縛り付け、呪いのもととなった」というように教え、実質的にそれを与えた神を「呪いと奴隷の元凶」にしています。これはあたかも、交通法規を毛嫌いし、交通法規を公布した国を敵視するドライバーのようなものです。交通法規から解放されれば、危険と不自由が待っていることを知りません。
フルプレテリズムも、このような一般的な誤解から解放されていません。
(2)
堕落前のアダムも、神の子供でしたから、律法は、恩寵として与えられました。
しかし、それは、同時に、それによって「義」を達成するための手段でもありました。
アダムはそれを守ることによって、自分とそれに連なる全被造物を「義」とする責任が与えられていました。
なぜならば、アダムは、契約の代表者として神の前に立っていたからです。
これが業の契約です。
(3)
しかし、アダムが堕落して失敗したので、神は、この契約とは別の契約(恵みの契約)をお立てになり、契約の代表者を別の者に据えました。その最初の現われは、神が動物の毛皮を着せられたことです。
これは、「寒かったから」とか「肌を痛めないように」という物理的な原因だけではなく、契約的意味がありました。
それは、「他人の義を着る」ことによって、「裸を覆う」ということです。
人間の裸は、最初、まったく「恥ずべきもの」ではありませんでした。なぜならば、それは、神の創造だったからです。神が創造されたものは完全なので、恥ずかしいものではありません。
「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」(創世記2・25)
しかし、人間が罪を犯した後に、裸は、自然の状態ではなく、「恥の状態」になりました。なぜならば、人間存在そのものが罪によって「異常になった」からです。
それゆえ、人間は裸を覆われる必要があります。彼らは自分の力でそれを覆うことを願いました。いちじくの葉を腰の周りに巻きつけましたが、神から身を隠したことから、それがまったく効果がなかったことが分かります。
「そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。…彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 」(創世記3・7)
そこで神は、動物を殺して、その毛皮を人間に着せられたのです。
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3・21)
これは、「人間の堕落した状態を隠して、神の前に義とするためには、他者を契約の代表者として立てて、彼を身代わりの犠牲にしなければならない」ということを象徴しています。
これは、「恵みの契約」です。契約の代表者はアダムではありません。アダムはその代表者(すなわち、キリスト)の陰に隠れなければなりません。
(4)
このように、最初の契約の時に、契約の代表者はアダムでしたが、後の契約において、それは、キリストになりました。
最初の契約において、代表者アダムが失敗すると、その影響は、全被造物に及びました。
「<あなたのゆえに>地は呪われ」(創世記3・17)、「被造物は虚無に服し」(ローマ8・20)、「滅びの束縛」(ローマ8・21)の中におり、「ともにうめきともに産みの苦しみをしてい」(ローマ8・22)ます。
もし、最初の契約が「恵みの契約」であったら、恵みの契約の代表者はキリストなので、被造物が堕落した責任はキリストにあったということになります。
しかし、この時、キリストはまだ受肉しておらず、また、キリストが罪を犯すことはありえないので、やはり、最初の契約の代表者はアダムであり、アダムが罪を犯した結果が、全被造物の堕落につながったと考えざるを得ません。
(5)
それゆえ、「恩寵」と「自然」という図式は、やはり、当初のアダム契約に適用できるのです。
もちろん、律法は、アダムにとって恩寵でありました。しかし、それだけではなく、アダムには全被造物を背負って、自分とそれを義とする使命が与えられていたので、律法は、義を達成するための手段でもあったと考えざるをえません。
アダムに対する神の「恩寵」は、アダムが契約の代表者であったということと矛盾しません。
アダムは神の恩寵の中にあったのであり、それは、今日の我々の立場と同じだ、だから、アダムの契約は業の契約ではなく、恵みの契約であった、と結論するのは間違いです。
アダムは、神の恩寵の中において、契約の代表者として立てられ、重大な責任を与えられたのです。
失敗すれば、自分と被造物の死につながり、成功すれば、「いのちの木」から取って食べることが許され、自分と被造物を栄光体に変え、永遠の状態に移行することができるはずでした(Geerhardus Vos, Redemptive History and Biblical Interpretation, P&R)。
事実、彼は失敗したので、彼は死に(創世記5・5)、被造物も死にました(ローマ8・21)。
2004年3月4日
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