異端者はへりくだれ


このHPをご覧の皆様は、キリスト教の同信者に対する厳しい対処について、中世の「異端審問」のような狭量な教えと考えられるかもしれません。

しかし、中世の異端審問、魔女裁判において、論拠とされたのは、聖書ではなく、当時のスコラ神学であり、アリストテレスの科学観でした。

私が、ここでフルプレテリズムと奥村牧師を異端とするのは、聖書に基づいてのものです。

もし、彼らの教説が流布すれば、キリストの贖罪信仰が崩れ、人々から救いが奪われます。彼らといっしょに多くの人々が地獄に引きずりこまれることになります。

パウロは、「キリストの十字架だけではなく、割礼を受ける必要がある」と述べた人々に「のろい」を宣告しました。

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1・8)

そして、そのような謬説を唱える人々に対して、「除名を宣告しなさい」と述べています。

「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。」(テトス3・10)

これを愛がない態度、極端と考えるならば、それは、異端の怖さを知らないからです。

これまで、フルプレテリズムやワンネス神学に対して、何十時間も反論し、悔い改めを求めてきました。

時に厳しい言葉を述べましたが、それは、問題が重大で、目を覚まさなければ、滅んでしまうだけではなく、彼らの下で教えを受ける人々までその滅びに巻き込まれるからです。

真理を伝える職務に任命された牧師は、格別厳しい裁きがあります。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3・1)

牧師は、ある意味で人々に恵みの福音を伝える水源です。その水源に毒がまかれれば、どういうことになるでしょうか。

キリストの十字架だけではなく、律法が廃棄されなければ、救いはない、などという教えを公然と伝える人々を許してよいでしょうか。

三位一体以外を信じてもいい。それは、異端ではない、というならば、エホバの証人を公認せよ、と言っているのと同義です。

このような公然と犯された罪については、公然とした対処が必要であり、彼らの所属教会、上部権威が彼らを黙認するならば、その上部権威者たちが、「真理の言葉を伝え、真理によって民を牧会する」という務めを放棄したことになり、神からの除名処分が下ります。

もちろん、彼らが悔い改めて、それらの異端を捨てるならば、我々は喜んで彼らを受け入れます。

問題は、彼らの頑固にあります。特に戒めるこちらに対する奥村牧師の反抗は目に余るものがあります。

このような反逆者につける薬はありません。

謙遜になって、御言葉の前に頭を垂れ、そして、歴史的に教会が正統としてきた教えに対する謙遜な学習の姿勢がない限り、彼らは、自分の愚かな判断力を過信し、自分勝手な教えをばらまいて、異端を拡大させ、多くの人を滅びに巻き込んでいくでしょう。

「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(1ペテロ5・5)

 

 

2004年2月28日

 

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