予定説
予定説とは、 神の絶対性から導き出される教理であり、証拠聖句もたくさんあります。
「神は絶対である」→「被造物を必要としない」→「被造物に動かされない」→「すべてのことをあらかじめ計画された」→「救われる人と滅びる人を予定された」
ここには、人間が介入する隙は一切ありません。
人間は、自分のいかなる行為や性質によっても、救いの業に関与することはできません。
もちろん、救いにおいて実際に動き、働くのは、人間です。神は「宣教の言葉の愚かさによって」人を救いに導いてくださるので、人間が関与しているのは明らかです。
私が、ここにおいて「人間が介入する隙は一切ない」というのは、「救いに関しては人間の発案とか意思、行動など『に起源をもつ』ものは何もない」という意味です。
すべてが神の一存で決まっているのです。
人間が「救われたい」と願う願いも、すべて神から出ており、「伝道者になって救いの働きに参与したい」という願いも、すべて神から出ているのです。
人間から見れば、「伝道者になって人を救いに導きたい」と願うのですが、神から見れば、逆です。
それはこのような順序です。
「神はA氏を救おうと永遠の昔に決意された」→「神はA氏の心に救われることを願う願いをお与えになる」→「神は伝道者になりたいという希望をB氏に与える」→「神はB氏をA氏のもとに送り、伝道する」→「神はB氏の言葉を聞いたA氏の心を開いて救いを受け入れるように導かれる」→「B氏の伝道によってA氏が救われた」
ここには人間の思いは一切介入できません。
すべてが神から発しているのです。
しかし、アルミニウス主義は、救いの功績の一部を人間に与えます。
「神は誰を救うかを予定されなかった」→「A氏は心に救われることを願う願いを持った」→「B氏は伝道者になりたいという希望を持った」→「神はB氏をA氏のもとに送り、伝道する。または、B氏はA氏のもとに行き伝道しようとした」→「B氏の言葉を聞いたA氏は、自分の心を開いて救いを受け入れようと決意した」→「B氏の伝道によってA氏が救われた」
ここにおいて、神は、人間の決断に左右される相対者になります。
神ですら、A氏が救いを受け入れるかどうか知りません。
A氏が救いを受け入れる前には、神も人間と一緒になって不安になります。救われると、「ああ、よかった!」と思い、救いを拒むと、「ああ、残念だ。」と嘆く。
このように被造物の行動に一喜一憂するのは神ではありません。
人間が救われるのは、圧倒的な神の力強い導きによります。それは、イスラエルを救うために、紅海を割って民を海の中を歩かせたのを見ても分かります。
人間は神の救いの恵みを拒否することは絶対にできません。
これを「不可抗的恩恵」と言います。
救いに予定されている人は、右に進んでも左に進んでも、最終的に救われてしまいます。
神の決定に逆らうことのできる人はひとりもいません。
「安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けた…」(使徒16・13-15)
ここで、はっきりと「主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた」と書かれています。
多くの女がいる中で、主はルデヤの心だけを開いて、救われました。
救いも滅びも、すべて一方的な神の力強い導きによって起こることであり、人間の選択の余地はまるでありません。
2004年3月12日
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