異端とは何か?


異端についてペテロは次のように述べています。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの
中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びの意見をもたらす異端を
ひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえし
て、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色
にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、
作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔か
ら怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」
(一部直訳:2ペテロ2・1-4)

ここで、異端として定義されている主要なポイントは3つあります。

(1)滅びの意見を持ち込む
(2)自分たちを買い取ってくださった主を否定する
(3)作り事のことばを述べる。

(1)それを述べ伝えることによって信じた人々が滅びる教えです。
 イエス・キリストの十字架の贖罪のみが救いにいたる方法であるという福音の根本
教理を否定する教えは、異端です。

谷口氏は、次のように言われます。

「天地(旧い契約と古いイスラエル)が滅びていないなら私たちは今も律法の一点一
画のすべてを守らなければなりません。そして私たちは今も律法の下にあり、律法の
呪いの下にある者となってしまいます。しかし感謝なことには、キリストが十字架の
御業と復活、そして再臨を通して天地を滅ぼしてくださったので、私たちは律法の呪
いの下ではなく、キリストの新しい契約、新しい天地の中にいて、自由となっている
のです。」

この論理は、次のようになります。

(T)古いイスラエルの時代に、天地は滅びていない。
(U)それゆえ、その時代には律法の一点一画も廃れていない(マタイ5・17)。
(V)律法が廃れていない以上、一点一画を完全には守れない者は律法の呪いの下に
いる。
(W)しかし、キリストが十字架の御業と復活そして天地を滅ぼしてくださった。
(X)もはや天地が存在しないので律法の呪いの下にはいない。新しい契約のもとで
自由になった。

これは、明らかに、「キリストの十字架の御業と復活」のみではなく、「天地を滅ぼ
してくださった」ので、「律法の呪いの下」にはいなくなった、つまり、罪赦されて
救われたと言っている。

すでに掲示したように、ここで、「キリストの贖い以外による救いの道」が提示され
ています。

「天地が滅びた」→「律法は廃棄された」→「律法の呪いから解放された」

氏の議論には明らかに、律法の呪いは、律法を成立させている天地の存在が原因だ、
という理屈がある。

もし、谷口氏が、「キリストの十字架の御業と復活のみによって救われた」と考えて
いたとすれば、(T)(U)(V)を長々と議論はされなかったでしょう。

(T)(U)(V)を「律法の呪いからの解放」の根拠としているからこそ、(T)
(U)(V)があるとしか考えられませんね。

ということは、フルプレテリズムは、「天地が滅び、律法が廃棄されたことも、律法
の呪いからの解放、すなわち、救いの条件の一つだ」と考えていると考えざるを得な
い。

「律法の呪いからの解放」という点について、フルプレテリズムは、「天地が滅び
て、律法が廃棄される」ことに救いを求めている。

これは、環境決定論であり、聖書の贖罪信仰を破壊します。

聖書は明らかに、「人間が律法の呪いから解放されるのは、ただひたすらにキリスト
の贖罪の血による」と述べていますよね。

聖書のどこにおいても、「人間が律法の呪いから解放されるには、律法そのものが消
滅してしまわねばならない」なんて言っていない。

聖書は、「律法の呪いから解放されるのは、その律法ののろいを身代わりに受けて死
んでくださった方の贖罪を信じることによってのみ可能である」と教えている。

「自分を裁く基準を取り去ればよいのだ」なんて言っていないでしょう。

パウロは、救いの道として、キリストの贖罪以外のいかなるものも付け加えることを
許しませんでしたね。

すでに、ここにおいて「信仰のみ」の宗教改革の信条と矛盾している。

しかも、もし本当に「律法が廃棄されること」が「律法の呪いからの解放」の条件で
あるならば、他の個所においても、何度もその教えが出てこなければならないのに、
補強聖句がまるでない。

人間の救いにかかわるこれだけ重大な教えなのに、おかしくないでしょうか。

ペテロは、言いました。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4・12)

イエスは、言いました。

「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
(ヨハネ14・6)

そして、キリストの贖罪信仰のほかに、割礼を要求する人々についてパウロはこう述
べました。

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音
に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガ
ラテヤ1・8)

「キリスト以外に救いの道を付け加える者は、のろわれるべきである」と述べている
ということは、その仲間になる人々も「のろわれるべき」であり、それゆえ、そのよ
うな教えは、人を滅ぼす意見であり、異端です。



(2)「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者
の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
(ヨハネ10・9)

救われない人は、「イエスを『主と』告白しない」人です。

イエスは、聖書を信じており、また、使徒を正当な証人として聖書を通じて証言させ
ているので、聖書啓示を絶対と見ない人はイエスを「主と」告白していません。それ
ゆえ、その人は、救われませんし、そのような教えは「滅びを持ち込む」異端です。

律法は廃棄されたということを教えるのは、明らかに聖書啓示に無効個所を作ること
であり、「御言葉を削り取る」行為であり、聖書啓示を絶対としません。

マタイ5・17の「天地が滅びない限り」という言葉が、モーセ律法の期限を設定する
教えであるというのは、明らかに、聖書の「読み込み解釈」であり、そのような教理
は歴史的信条にもないし、しかも、補強聖句がまるでありません。

むしろ、パウロは、律法の有効性を保証する証言をいくつかしています(ローマ3・
31など)。

フルプレテリズムが持ち出す「キリストの律法」も、具体的にどのようなものが律法
であるのか、聖書にはどこにも明示されていません。

これは、すでに前のメールで論証しましたので参照してください。

聖書が一貫して主張しているのは、「モーセ律法は廃棄されたのではなく、確立され
たのだ」ということだけです。

これに対して、「天地が滅びる」ということを論拠にモーセ律法の時限設定をするの
は、あまりにも証拠聖句が不足しており、論証は不可能です。

彼らが証拠として挙げる、様々な「律法は廃棄された」(ヘブル7章など)は、従来
の「律法の呪いの廃棄」という解釈で説明できます。

「これ以外ありえない」というような「証拠」聖句を出すことは不可能です。

フルプレテリズムは、聖書のすべての教えの基礎である神の法を無効にすることに
よって、聖書啓示に大きな傷を与えるものであり、それは、「主を否定する」わざ、
つまり、異端です。


(3)「作り事のことばを述べる。」

作り事を表す原語は、「プラスチック」の語源プラストスで、「うまく作り上げられ
た話」という意味です。

クリスチャンは、お手盛りの教理を作ることを禁止されています。つまり、聖書が明
らかに述べていること以外の教えを信じてはならない。

我々の救いに関する、聖書的根拠のないあらゆる意見が、ここで「異端」と定義でき
ます。

そこで、重要なのは、(2)と関連しますが、「証拠聖句」が欠乏していて、一箇所
か二箇所の聖句から作り出された教理は、「作り事」になる危険性が大きい。

だから、死後の救いについての最近はやっている意見は、異端なのです。聖書がはっ
きりと示していないものを類推によって、根拠不足のまま伝えることは、異端の業な
のです。

バーカー牧師の「善と悪が永続する」なんてのも、証拠がない。

「新天新地にも悪が存在する」ことを証明しようとして彼が挙げた証拠聖句なども、
伝統的な解釈によって説明がつく。

「証拠聖句」であるかぎりは、「それ以外解釈のしようがない」というものでなけれ
ばならない。

むしろ、「もし善と悪が永続するならば、キリストの贖いと王権は絶対ではなかった
のか?」という疑問が起きます。

永遠に悪が存在し、永遠に悪魔は人間をたぶらかし、永遠に人間は罪を犯し続けるな
んていう解釈は、まさに、根拠不足の「作り事」です。

 

 

2004年2月26日

 

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