救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する12
<Y>
>もし、パウロが「超性別的経綸」を主張していたとすれば、
>「教会において女は男を教えてはならない」という言葉はそれ
>と完全に矛盾しています。また、1コリント 11: 5−7で、パウロ
>は、礼拝時においてかぶり物の着用について男女間に区別を行っ
>ていることを説明がつきません。
パウロの考えでは、女性がかぶり物を着用するのは、天使に対する配慮のためであって、男性に対する配慮ではありません。
では、何を配慮するのかというと、男の頭は「キリストの栄光」を天使に対して現します。女の頭は「男の栄光」を天使に対して現します。
そこで、もし、男が頭にベールをかぶって、教会で祈ったり語ったり、説教したりするなら、その男は、キリストの栄光を隠すことになります。
ですから、男は、頭をあらわにして、教会で祈ったり、語ったり、説教したりすることにより、「キリストの栄光」を天使に対して現すのです。
これに対して、もし、女が頭をあらわにして、教会で祈ったり語ったり、説教したりするなら、その女は、「男の栄光を現す」ことになってしまいます。
教会において、また、天使に対しては、単なる被造物に過ぎない「男」が栄光を現すことがあってはならないのです。それは、キリストの栄光を犯すことになります。
ですから、女が教会で祈ったり、語ったり、説教したりする場合には、必ず頭にベールをかぶり、男の栄光を隠さなければならないのです。
このように考えるとき、女がかぶり物をするのは、男に対する従属を示すというよりは、むしろ、かぶり物をすることによって、女が男と同じように、教会で祈ったり、説教したり、語ったりしても、「天使が困惑しないようにする」ための配慮であったと考えられます。
<T>
>パウロの考えでは、女性がかぶり物を着用するのは、天使に対する配慮
>のためであって、男性に対する配慮ではありません。」
(1)
1コリント11・10「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです」において、「御使いたち『だけ』のためにです」とは書いてありませんので、「男性に対する配慮ではない」とは言えません。
(2)
その前の9節「男は女のために作られたのではなく、女が男のために造られた」は、10節の根拠です。つまり、ここで、「女は男のために造られたので、女は頭に権威のしるしをかぶるべきだ」と言われています。「権威のしるし」というのは、すなわち、「男性が権威であり、女性がその権威の下にいる」ということを表現しています。パウロは3節「すべての男性のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です」において、明らかに「神―男―女」という権威のヒエラルキーがあると述べており、「超性別的経綸」を否定しています。
(3)
この議論において、問題にされているのは、ガラテヤ3:28の「キリストにあっては男も女もありません」は超性別的経綸を意味しているか否か、ということです。
私は「意味していない」といい、山谷氏は「意味している」といわれる。
しかし、山谷氏は、「女の頭は『男の栄光』を天使に対して現します」と述べ、頭をあらわにすることによって「女は、『男の栄光を現す』ことにな」る、と発言された時点で、すでに性による区別、「男女の権威の差」を認めており、それゆえ、超性別的経綸を否定しておられる。
女のかぶり物が、「天使に対する配慮」であるか、それとも、「男性に対する配慮」であるか、の議論は、この時点で、まったく意味をなさないものになってしまっているのです。
(4)
聖書は、男と女の間には権威の差があると述べています。
しかし、これは、男と女の間に「本質的優劣」があるということを意味しません。
男と女の間の差は、「社会機能的優劣」なのです。
これは、「召しの違い」という言葉でも表現できるでしょう。
会社において社長が上で、社員は下です。しかし、このことは、その本人の本質において差があるということではありません。社長の命も社員の命も平等に尊い。人間は、神の御前に平等に尊いものとして創造されている。
しかし、社会が秩序を持って機能するためには、権威に差をつけなければならない。
社員が社長よりも重要な決定権をもてば会社はめちゃめちゃになります。
そのために、神は、人間の間に権威の差を設けられた。
「すべての権威は神によって立てられた」とパウロは述べています。
男女の差も同じです。
男は、女よりも、大きな権威を与えられていますが、それは、男が女よりも本質において優れていることを意味しません。
男も女も神の御前では平等です。
しかし、家庭や社会や教会などにおいて、神は男により大きな権威を与え、女に対してリーダーとして立てられた。
この秩序を認めなさい、とパウロはここにおいて述べているのです。
現代の文化は、ウーマン・リブなどの運動によって、男女平等の意味を履き違えて、何でも両者に同等の権威を与えようとしている。
これは、聖書から見れば逸脱なのです。
「雌鳥さえずると、家が滅ぶ」ということわざがあるように、女性が男性を出し抜く社会は、秩序の乱れが起きることが多い。例外がないとはいえません。しかし、本来の社会の姿は、男−女の順番です。
女性は男性の助け手として造られていると聖書が述べているように、女性は男性を立て、従っていくのがベストなのです。
2004年1月6日
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