健全な社会的関心を持つために


昔、私の母教会の主任牧師A氏のもとに、彼の恩師である著名な神学者B氏がやってきた。

B氏は、A氏の礼拝に出席した後に、「君のメッセージには社会性がないね。」と言った。

B氏は、リベラルな社会派だったから、個人の内面しか取り扱わず、社会全般についての関心が欠けている福音派のA氏のメッセージが物足りなかったのだ。

社会性ということについて、日本の教会の悲劇は次の点にある。

(1)社会に関心を持つクリスチャンが、思考の前提を聖書啓示におかずに、世俗の学問から学び、キリスト教の社会思想を世俗化した。

(2)この世俗化に反発した福音的クリスチャンが、正しい社会的関心を求めず、社会に関する関心そのものを捨てて、キリスト教を内面化・個人主義化した。

それゆえ、今日の教会は、社会について、聖書啓示とは無縁の世俗思想(たとえば、マルクス経済学、リベラル法律学など)に毒されているか、もしくは、「社会について考えるのはキリスト教的ではないよ。」といって、社会的関心そのものを切り捨てるか、どちらかの極端に偏っているのである。

この極端を避けて、バランスの取れた態度を取りたいならば、我々は、「聖書啓示から出発し、聖書啓示に帰る」という姿勢を堅持しなければならない。

しかし、残念なことに、(1)も(2)も、聖書律法を捨てているから、このような健全な立場に立つことはできなくなっている。

聖書啓示から出発して、聖書啓示に帰るという姿勢を堅持するには、聖書律法を研究する以外にはない。なぜならば、旧約律法が規定する社会は、全人類の模範だから。

聖書律法の本質は、「神を愛し、人を愛する」ということにあるから、次の2つのことを教えている。

(1)神との正しい関係
(2)人との正しい関係

一見すると、古代イスラエルに関する規定は、現代社会に住む我々とは無関係に思える。

しかし、それは、紀元前のユダヤ人に対してだけ述べられたものではなく、あらゆる時代のあらゆる地域に住む人々がそこから普遍的な原則を学び、自分の文化的脈絡の中で適用するための判例なのだ。

もしそうでなければ、「御言葉には普遍性はない」ということになり、次のパウロの言葉と矛盾する。


これらのことが[イスラエルの民に]起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。
また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 (1コリント10・6-11)

パウロは、「旧約聖書の事件は、新約時代のクリスチャンが教訓とするために起こった」と述べているのだ。

それゆえ、我々は、旧約聖書のどの個所についても、「ああ、これは、あの当時の人々の話でしょう。我々には関係ない。」とは言えない。

律法が政治、経済について語っているならば、それを我々の環境に適用すべきだ。

そうする時に、我々は、はじめて、社会的問題について、バランスの取れた立場に立てるのだ。

すなわち、世俗の学問にも毒されず、かといって、社会的関心を捨てる必要もない、そのような健全な理解が得られるのだ。

 

 

2004年2月19日

 

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