聖書を前提とすべきである

 


> こんにちは。またメールさせていただきました。
>  あそこのサイトまだキリスト教廃教推進委員会とか書き込ん
> でる人がいてとても不愉快です!(まだつい見ることがある)
> 多分なにか特定の宗教をもってる人のいやがらせじゃないのか
> なと、あやしんでます。…
> (余談ですが富井先生の活動ってどういう事なのですか?!
>  良く理解できてなくてすみません。)

サタンが一番最初に行った誘惑とは、「神様は本当にそんなことを言ったのですか?」と言って、人間に御言葉を疑わせることです。

ということは、人間が一番罪に引き込まれやすいツボというのが、ここにあるということが分かります。

最初から、「殺人しろ」とか「泥棒しろ」とは言わずに、「聖書って信じるに値するかな?」と言うのです。

聖書に対して疑いを持っていない人に、殺人や泥棒などを犯させることが難しいことをサタンは知っています。

聖書は、人間にとって、生きるための土台だからです。

しかし、いったん聖書に対して疑いを持たせれば、土台を破壊するのですから、人間は簡単に罪を犯すようになります。

どんなに建物の内部の柱や外壁や屋根を立派に作っても、土台がフニャフニャであれば、建物は傾いて役立たずになるように、聖書という土台を持たない人間は、簡単に崩れてサタンの餌食になります。

インターネットを通じて、サタンはいろんな攻撃を行っていますが、最も注意すべき攻撃は、「聖書を疑わせる」という攻撃です。

私の働きの中心は、「聖書を疑うな」というメッセージを伝えることにあります。

これを神学用語では、「前提主義」と言います。

これまで人間は、本当の意味で聖書を前提(土台)とはしてきませんでした。

ヨーロッパにおいてキリスト教が広まりましたが、ヨーロッパにもともとあったギリシャ哲学とかローマ法などの思想がキリスト教の中に入りました。

宗教改革において、「聖書のみ」という考えが広まりましたが、それでも、人間の教えを完全には払拭できませんでした。

19世紀に進化論や本文批評学がはびこると、聖書への疑いが強くなり、この人間の教えがますます幅を利かせるようになり、20世紀に、ついに人間は、「神の啓示などどうでもいい。人間の知恵だけでやろう。」と考えるようになりました。

このようにしてサタンは人間を騙すことに成功し、私たちの周りの世界は、サタンのウソによって騙され、盲目にさせられた人々によって支配されています。

しかし、人間の知恵だけでやろうと述べたソ連や東欧などの共産主義国は破綻して、今残っているのは北朝鮮と中国くらいになり、人間の知恵では、世界はめちゃくちゃになることが証明されました。

神様は、逆らう人間たちに「自分たちだけでできるならやってみなさい」と、人間だけの世界を実験的に造らせました。

そして、すべての人の前で、失敗させた後に、神はホンモノを築かせるために、今、神の知恵だけに頼るクリスチャンを集めておられます。

私は、このような人々を集めるために、「聖書はあらゆる問題における最高権威である」と訴えています。


>  ところで、私は進化論と高等批評学に基づく本や情報が本当
> に氾濫していて、ニューエイジやフリーメイソン?!とかいう
> 思想と結びついていろんな人をそうとう惑わしていると思いま
> す。
>
>  最近読んだ本で、アブラハムが生きていた背景はモーセ以降
> の鉄器時代初期にマッチしているのではないかという事が書い
> てありました。
> それは、ベエルシェバという井戸が鉄器時代の前1200年以前に
> はさかのぼらないからという事が証明されたからだそうです。
> (でもたしかモーセは前13世紀か15世紀に存在していたんです
> よね?!別におかしくないと思うけど・・・)

資料("Introduction to Israel" by The Rev. Dr. A. Vanlier Hunter, Jr.)を見ると、アハロニという考古学者が1960年代及び1969年から75年にかけて、ベエルシェバの丘を採掘したところ、銅石器時代の遺物のほかに、9層に積み重なった遺跡を発見したといいます。
第9層目には、紀元前13世紀から11世紀あたりの無城壁の村の遺跡がありました。

おそらく、お読みになった本の説は、この発掘結果を参考にしているのだと思いますが、銅石器時代(4500-3800 B.C)の遺物も見つかっているのですから、アブラハムの時代(紀元前21世紀)にアブラハムがそこにいなかったと証明はできないのではないでしょうか。

学者は、銅石器時代から、鉄器時代(紀元前12世紀)までの間の層に居住跡がないと言いますが、その丘に居住していなかったことが、その付近一帯に誰も居住していなかったことを証明しません。

我々が住んでいる周りの土地のことを考えてみてください。一時居住していた村がしばらく捨てられて、また人が住み出したからといって、その村の周りの地域にその捨てられている間に誰も住んでいなかったということにならないでしょう。

もし、アブラハムが住んでいたのがこの丘であることがはっきりと聖書に記されているならば、「証明された」とも言えるかもしれませんが、「まさにその丘」に住んでいたことが確定していないのですから、「単なる推測」の域を出ることは不可能です。学者は、「いや、この丘に井戸があったから」と言いますが、その井戸が、アブラハムの井戸と証明できないのですから、証拠にはなりません。

しかも、ベエルシェバは、ワジ・サバとワジ・ケリルの合流点にあり、水の浸食や汚泥の堆積などの影響を大きく受けているから、ベエルシェバの位置の確定は困難だと言う学者もいます。

私たちは、2,3日前の事柄ですら、分からないことだらけなのです。

たとえば、殺人事件が起きても、犯行状況に諸説が出て、多くの議論を重ねる必要があり、ついには確定できないで終わり、未解決事件になることが多いわけです。

まして、何千年も前のことを、「これだから、これだ!」などと断定することは、極めて難しいと考えねばなりません。

聖書の記述を否定する人々は、このように一箇所を掘って、鬼の首を取ったようなことを言うことが多いです。

これは、「UFOを信じている人は、雲を見てもUFOに見える」という心理と同じなのです。

「聖書を否定したい。だから、聖書を否定する。」というレベルの議論に振り回される必要はまったくありません。


>  今、インターネットの偏った情報では、モーセやイエスさま
> の実在性さえ疑う情報があるので、困惑しています。
>  モーセやアブラハムがいなかったのなら私達はどんな信仰を
> もてばよいのでしょうか?!
> このことに関してなにかよいご意見をお聞かせください。

イエスさまが、「モーセやアブラハムは存在した」と聖書の中で言っている、というのが最終的な証拠です。

これ以上詮索する必要はまったくありません。

イエスさまが実在したのか、という疑問は、「聖書はイエスが存在したと述べている」という知識によって、最終的に解決されます。

聖書は、前提なのです。

聖書すらも疑ってしまったら、人間は何を信じればよいのでしょうか?

そう、結局、自分の主観です。

でも、自分の主観に頼ることができないのは、日々いやというほど知らしめられますよね。

私たちの判断力や記憶力などあてになりません。

いろんな学者がより集まっても、間違うことだらけでしょう。

人間は、どんなに優秀な人が集まって、最高の知恵を出し合っても、この世界のごくごく一部のまた一部の知識しか得られないのですから、このようなちっぽけなものに頼ることはバカらしいのです。

我々をおつくりになった神様は、我々が、迷い迷って泥沼にはまりこむことのないように、聖書を与えてくださったのです。

> 本文批評関係の良い書物などございましたらご紹介ください。

前にもご紹介したように、『新聖書注解』(いのちのことば社)がよいと思います。

聖書信仰の先生がたが執筆していますので。

 

 

2003年12月27日

 

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