フルプレテリズム批判5
<T師>
※ その他のみことば
● 律法は教会を支配しない(ローマ7:1)
● 教会は律法にしばられていない(ローマ7:6)
● 教会は律法に対して死んだ(ローマ7:4、ガラテヤ2:19)
● 教会は律法から自由になった(ローマ7:6、8:2)
● 教会は律法の下にはない(ローマ6:14、ガラテヤ5:18)
※ もし天地が滅びていないなら・・・
● レビ11章9〜12節・・・あなたは守っていますか?
● レビ20章7,8節・・・きよくなるために行っていますか?
● 出エジプト23章14〜17節・・・祭りを守っていますか?
● 民数18章21節、申命記14章22〜27節、28〜29節・・・三
つの十一献金していますか?
<tomi>
先生、このようなのは、初級クラスの話で、バーンセンの『現代に生きるための旧約律法』を読めばすぐに解決がつく。
以下のことを本当に信じているならば、先生は、牧師をやめたほうがいいです。
● 律法は教会を支配しない(ローマ7:1)
「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。――」
このどこが、「律法は教会を支配しない」と教えているんですか???
パウロは、ここにおいて、「律法は、生者に対して権限を持つのであって、死者には持たない」としか述べていない。
● 教会は律法にしばられていない(ローマ7:6)
「しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7・6)
何度も言いますが、教会が律法に縛られないのであれば、じゃあ、次の個所をどう解釈するのですか?
「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)
「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。」(1コリント14・34)
「私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。」(1コリント9・8-10)
繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、言いますが、もし教会が律法に縛られないのであれば、どうして、パウロは、律法を基準として提示し、「こうしなさい」と命令したのですか?
● 教会は律法に対して死んだ(ローマ7:4、ガラテヤ2:19)
引用面倒なんで省略。
これらの個所は、クリスチャンがキリストにつながれて、キリストと一体になっているので、もうすでにキリストにおいて罪が処罰されているので、「律法ののろいに対して死んでいる」と言っているのです。
● 教会は律法から自由になった(ローマ7:6、8:2)
律法から解放されたのは、「律法の刑罰から」解放されたのです。
もし、律法そのものから解放されたのであれば、「律法も言うように、…しなさい」「律法は確立された」とは言いません。
● 教会は律法の下にはない(ローマ6:14、ガラテヤ5:18)
律法の下にはない、というのは、律法ののろいの下にはない、ということ。
※ もし天地が滅びていないなら・・・
● レビ11章9〜12節・・・あなたは守っていますか?
これを守る必要はない。なぜならば、聖い食べ物と聖くない食べ物の区別は、キリストにある者の霊的な聖さと、そうでない者の霊的汚れの象徴として与えられたから。
ユダヤ人が聖くて、異邦人が汚れているという区別も同じ。
キリストにある人は、聖く、そうではない人は汚れていることを象徴している。
新約時代になって、超民族的経綸になってから、これらの民族的、特殊的律法は、超民族的経綸における、普遍的な戒めに変わった。
こんなこと、ラッシュドゥーニーの聖書律法綱要の序論にあったじゃないですか。
グレッグ・バーンセンやゲイリー・ノースの書物読んでないんですか?
以下についても同様。
● レビ20章7,8節・・・きよくなるために行っていますか?
● 出エジプト23章14〜17節・・・祭りを守っていますか?
● 民数18章21節、申命記14章22〜27節、28〜29節・・・三
つの十一献金していますか?
まあ、あきれました。これほど初歩のことも分かってなかったんですね。
これじゃあ、フルプレテリズムの議論なんてのじゃなくて、神戸改革派神学校の一年生のクラスに入ったほうがいいです。
基礎がまるっきりできてない。
2004年2月25日
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