<Y>
このような過激な主張が出てくる理論的背景には、人間は自律的存在ではなく他律的存在であり、結局のところ、人間のすべての理性的判断は、神を信じる信仰と旧新約聖書の啓示に根拠して下されなければならないということです。
そして、聖書が「処刑せよ」と命じている限り、人間は純粋にそこだけを出発点として社会や司法を構築しなければならない、という考え方です。聖書の権威は絶対的であり、聖書の下す命令に対して、人間は絶対に服従しなければならない、ということです。
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Y氏はここで恐ろしいことを主張しています。(*)
(1)人間は自律的存在である。
(2)人間のすべての理性的判断は、神を信じる信仰と旧新約聖書の啓示に根拠して下されなければならないとは限らない。
(3)聖書の権威は絶対的ではない。聖書の下す命令に対して、人間は必ずしも絶対に服従しなければならないというわけではない。
この人は、ほんとに救世軍の将校なんですか?
いや、それ以前に、この人は、ほんとにクリスチャンなんですか?
読者は、再建主義を批判すると、自分が「別の宗教」を信じていることが暴露されると、私が常々語ってきた意味がこれでお分かりになったと思います。
もし救世軍の士官学校において、「聖書は絶対的権威ではない」、「聖書の下す命令に対して、人間は絶対服従しなくてもいい」と教えているなら、救世軍そのものが、「別の宗教の軍隊」であることを証明しています。
反論するまでもないことですが、「聖書の権威は絶対的である」と信じるのはキリスト教の基本であり、「聖書のみ」を唱える宗教改革の基本でもあります。
私がこれまで理解してきたところでは、救世軍は聖書信仰だと思っていましたが違うのでしょうか。それともリベラリズムにやられた?
(1)
「人間は自律的存在である」と主張することは、「人間は善悪を自分で決定できる権威を持つ」と同義です。
自律とは、英語のautonomy の訳語であり、この言葉は、ギリシャ語αυτοs(自分自身)+νομοs(法)=「自分自身が法である」に由来します。
アダムの堕落の本質は、「善悪の知識の木」から取って食べ、「神のように善悪を知る者となった」(創世記3・22)ことにありました。
ここで、「善悪を知る」とは、「善と悪を区別する」ということです。
「知る」にあたるヘブライ語yada’ は「知る」という意味のほかに「区別する」という意味を持ち、この個所では、この意味で用いられています(R. Lair Harris, ed., Theological Wordbook of the OT, Moody Bible Institute of Chicago, 1980)。
「神のように善悪を区別するようになる」とは、すなわち、「神のように自分でこれを善とし、これを悪と決定する者となる=自分独自で善悪の基準を設定する者となる」を意味します。
つまり、聖書は、「人間の堕落の本質は、神のように法制定者になったことにある」と述べています。
人間はアダムにおいて、神の基準や法によらず、自分独自に法や基準を設定する者、つまり、「神のライバル」になった。
サタンの誘惑の目的は、人間を神のライバルに仕立て上げ、自分と一緒に神に対して反逆させることにありました。
それゆえ、Y氏が、「旧約律法を社会制度に適用する」などという「過激な主張」をするというゲイリー・ノースを否定し、「人間は自律的な存在である」と言い、「聖書は絶対的権威ではない」と主張する時に、彼は、「人間は神のライバルでよい」と主張していることになり、サタンと同じ陣営に属していると告白していることになるのです。
(2)「人間のすべての理性的判断は、神を信じる信仰と旧新約聖書の啓示に根拠して下されなければならないとは限らない」と主張することは、すなわち、「クリスチャンの生活の中において、神のご意見に従わなくてもよい領域が存在する」と主張しているのと同値です。
つまり、人間の服従とは、全的服従ではなく、何らかの基準に合わせて、もしくは、自分の都合に合わせて、ある時は服従し、ある時は服従しなくてもよい、と宣言することになります。
こんなの、キリスト教ですかぁ?
Y氏にとって、神様とは何ですか?
服従したい時に、服従し、したくない時に、服従しなくてもよい神ってなんですか?
もっとも、自分の判断で、善や悪が変わると公言するわけですから、首尾一貫していると言えなくもないのですが。
このような「宗教」において、「悔い改め」は無意味です。理論的に言えば、悔い改めたくない場合は、規則を変えて「これは罪ではないんだよ」と言えばよいわけですから。
(3)「聖書の権威は絶対的ではない。聖書の下す命令に対して、人間は必ずしも絶対に服従しなければならないというわけではない」なんて、本当に講壇から教えているのでしょうか。
次のイエスの御言葉をどう解釈されますか?
「戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5・18−19)
これは、神への絶対服従の勧めではないですか?
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(1コリント10・31)
「何をするにも」神の栄光を現すためにせよ、というのは、絶対服従の勧めではないですか?
神に対する絶対服従を説かなければ、神を「自分の召使」にしているのです。
今の教会のメッセージにおいて、服従を説くよりも、恵みを説く傾向がある理由はここにあります。
神を召使やシュガーダディーと考えているから、「絶対服従」を説く再建主義が「過激」に見えるわけです。
再建主義を批判すると、自分たちがいかに、カルト化しているかが、白日のもとにさらされる。
横車を押さないことです。
(*)Y氏は、「ゲイリー・ノース」の、「旧約聖書の律法に根拠した司法制度の下で『死刑』を執行させよ」との主張を「過激」と述べ、その主張が出てくる「理論的背景」をここで説明していますので、氏が、それを否定しているのは明らかです。