フルプレテリズム批判6


<T師>

(4)フル・プレテリストはセオノミストであり続ける

 モーセ律法が廃棄されたことに恐れをなしてはいけません。そのことはクリスチャ
ンを無律法主義にするのではないからです。聖書は律法の本質は良いものであると言
います。

ローマ7章7節「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。
絶対にそんなことはありません。」

ローマ7章12節「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、
また良いものなのです。」

ローマ7章14節「私たちは、律法が良いものであることを知っています。」

 イエスは律法を成就されました。それは律法が悪いものではないことを示していま
す。またイエスはマタイ24章35節で「この天地(モーセ律法とそれを表わす古い
契約とその民)は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはあり
ません。」と言われました。私たちクリスチャンはキリストの中にあること、新しい
契約の中にあることによってモーセ律法から解放されました。
しかしキリストの律法(それはモーセの律法と種類がまったく違うものというのでは
ない)の下にあるものとされ、信仰によって律法を全うする者となったのです(ロー
マ3:31)。

 ですから、フル・プレテリストはセオノミストであり続けるのです。プレミレのセ
オノミストとは相違がありますが、なおもセオノミストなのです。なぜなら、セオノ
ミーとは「神の律法」であり、現在はモーセの律法ではなく、キリストの律法となっ
たからです。

<tomi>

いやはや、論理がめちゃくちゃですよ。

「聖書は律法の本質は良いものであると言います。イエスは律法を成就されました。
それは律法が悪いものではないことを示しています。」というからには、

「それじゃあ、律法を守れ」というのかなあ、と思うと、

「モーセ律法から解放されました」だと。

「モーセ律法から解放された」と言いたいんなら、「律法の本質は良い物である」と
いう解説は、不要ですよね。

最初から、

「しかしキリストの律法(それはモーセの律法と種類がまったく違うものというので
はない)の下にあるものとされ、信仰によって律法を全うする者となったのです
(ローマ3:31)。」と言えばいいんです。

もうこの文章の前の部分は何の意味もない。

しかし、「キリストの律法」って一体なんでしょうか。

それって、どこに書いてあるんですか?

「律法と種類がまったく違うものというのではない」わけですが、どこにそれが書い
てあるんですか?どうやって、フルプレテリストたちは、モーセ律法とキリスト律法
を比較して、「種類がまったく違うものではない」と結論できたんですか?

これまで、ずいぶんと聖書読んできたけど、モーセ律法に似た律法体系が別にかかれ
ているのを見たことがないですけど。


それに、もし、モーセ律法と違わないなら、「モーセ律法のまま」でいいじゃないで
すか。

なぜ、わざわざ変えたんですかね。


最後に:


得体の知れない「キリストの法」なるものを守るように主張しているからセオノミス
トだ、ってのは、我々が言っているセオノミストとは違うので、フルプレテリスト
は、セオノミストではないでしょう。

セオノミーというのは、「旧約聖書律法の新約時代における有効性を主張する立場」
なわけですから。


本音:

もうフルプレテリズムの議論の段階じゃないです。
改革派の律法論をまず勉強してください。
それ終わってからです。

 

 

2004年2月25日

 

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