異常人間を増やさないために教会がすべきこと

 


<ストレイ・シープ様>

ディスペンの人々に共通して観察されることは、その肉的プライドです。彼らは確かに知性は高いのですが、霊性が浅はかです。自分達の聖書預言解釈こそ聖書の真理であって、自分たちは世界の政治経済動向についても真実を知っており、他の人々はマスコミの偏向したニュースによって容易に騙されている。こういったある種の選民意識に彩られた鼻持ちならないプライドが感じられます。

ですから富井先生が彼らを貶めているというよりは、彼らの姿勢に批判を受けるべき問題があると見た方がよいと判断します。これは不思議なことですが、クリスチャンでなくてもイスラエルに入れ込む人々に共通する傾向です。正義感はとても強いのですが、その表現がこなれていないというか、青臭いというか、人の心の琴線にふれて人々の支持を獲得するのではなく、むしろプライドの臭いをプンプンさせて、自分達につくことはイスラエルにつくことであり、よって神につくことである、ゆえに自分達に反することは神に反することであると暗黙のうちに迫ってきます。

彼らはある種のエリート意識によって「神による破壊」は当然であり、むしろ神に反する者は破壊されるべきであり、それこそが神の御心であるというような傾向が感じられます。彼らのある人は言っております、「平和主義や活動は無意味である。むしろ世界で悲劇が起きれば起きるほどワクワクする。それはキリストの再臨が近いことを覚えるからだ」と。そこには自分とは無関係に預言が実現する過程を見ているといった推理小説を読んでいるような姿勢があります。例の「レフトビハインド」の異常なヒットがその顕著な現れです。「キリストの再臨」ことすべての問題の特効薬であり、それ以外の人間の努力は無意味であるとする傾向、すなわち神から委ねられた人の責任を放棄している姿勢が見て取れます。

富井先生は下のほうでアメリカのディスペンの3つの神学校のうち2つまでは転向していることを言われましたが、その辺りの経緯について、もう少し詳しくお話を伺えませんか。

<tomi>

再び、貴重なご意見を感謝いたします。
まことに、仰ることに同意いたします。

(1)
「これは不思議なことですが、クリスチャンでなくてもイスラエルに入れ込む人々に共通する傾向です。」というご意見はそのとおりであり、私は、「選民意識を持ったままのユダヤ人とつるむと、その傲慢が染るから」と考えています。

私は、人種・民族差別主義者ではありませんが、「ユダヤ人がなぜ迫害されてきたのか?」という疑問は、「それはサタンがユダヤ人を消そうとしているから」ということだけではなく、「彼ら自身の性向そのものに迫害をされるような部分があるから」と考えています。

何冊かのメシアニック・ジューの著書を訳し、南ロシアにおけるユダヤ人の活動に関する資料を見て思ったのですが、ユダヤ人はたしかに優秀でねたまれるほど事業において成功します。近代以降、機械文明の進展につれて、社会における商工業の比重が強くなるとともに、ユダヤ人の商業的センスが存分に発揮され、鈍重なロシア人やウクライナ人は、置いてけぼりを食らいました。南ロシアの商工業は、機を見るに敏である彼らにほとんど完全に乗っ取られました。

しかし、同じように勤勉で成功していた在ウクライナのドイツ人が迫害に合わなかったのに、ユダヤ人だけが迫害されたのは、彼らが「ユダヤ人と異邦人」という分け方をして、異邦人を軽蔑し、同胞の利益のためだけに活動するという部分があるからと感じました。助けるべき同胞と呼べるのは、ユダヤ人だけ、異邦人はこき使ってもいい、という傲慢な態度が見られるのです。

普通、地主から土地を借りると、自分で土地を耕すものですが、彼らは、それをロシア人小作人にまた貸しをして、そこから収入のうわまえをはねます。それだけならまだしも、彼らは、地主でないのに小作人たちに「地主さま」と呼ばせたり、彼らを「犬」と呼んだりしました。

このように異邦人を軽蔑するという傾向は歴史を通じて見られます。杉原千畝という戦争中にユダヤ人にビザを発行して、命を救った人に感謝するユダヤ人が、「もし私たちが彼の立場であれば、無視するでしょう」と言いましたが、たしかにそのようなエゴイズムはユダヤ人に固有の性質のように思えます。

福音書を読んでいると、イエスが最も強調し、福音書の主要なテーマの一つとなっていたは、この選民意識に対する非難と、それに対する刑罰の警告です。

それゆえ、私は、もしユダヤ人が本当に回復するならば、どうしても、選民意識を克服することが必要であり、それに焦点を当てないと、彼らは救われないだけではなく、再び刑罰の中に投げ込まれる恐れがあると考えています。

しかし、ユダヤ人伝道に関わる人々は、この点に注意を払わず、むしろ、ユダヤ人をおだて、崇拝し、自らを「テーブルの下でパンくずを拾う子犬」と見なして自己卑下するような傾向があり、新約聖書において異邦人も選びの民の中に入ったという真理を無にするような傾向があります。

この不健全な傾向は、ディスペンセーショナリズムの神学に問題があると考えています。ディスペンセーショナリズムは、千年王国時代に旧約聖書の経綸が復活すると考えており、そのために、基本的に、新約時代になって完全に新しい体制に変わり、「ユダヤ人も異邦人もない」時代となったという聖書の主張を受け入れていません。神殿は完全に崩壊して、クリスチャンの体が神殿となったと聖書が述べているにもかかわらず、再び神殿が建設されると教えているところからも、このことが分かります。

このような、「ユダヤ中心主義の神学」は、一つに、ユダヤ人を傲慢にさせます。なぜユダヤ人クリスチャンがポスト・ミレではなく、ディスペンセーショナリズムを受け入れる傾向があるかといえば、それは、自分たちが世界の中心民族であるというプライドを満足させてくれるからです。ですから、ディスペンセーショナリズムは、ユダヤ人に本当の悔い改めを促しておらず、真の意味において伝道しているとは言えないのです。

ディスペンセーショナリズムがイスラエル政府の政策を支持し、武力による領土拡張を非難しないのは、基本的に、新約聖書の経綸の中に、旧約聖書の民族的経綸を持ち込んでいるからです。それゆえ、ディスペンセーショナリズムを「クリスチャン・シオニズム」と呼ぶことができると思います。

これでは、今のイスラエル政府を批判することも、そのアメリカにおける出先機関であるネオコンを批判することも、それゆえ、イラク戦争を非難することもできません。ディスペンセーショナリズムは、神の目から見て、「塩」の役割を果たすことができない無用の長物になってしまいます。

しかし、彼らの主張が不思議なのは、このようにイスラエルに賛成しながら、同時に、「大患難時代に3分の1のユダヤ人が虐殺される」と信じていることです。もしイスラエルを愛しているならば、虐殺されないために、イスラエルに帰還しないように警告すべきではないでしょうか。

なぜ警告しないかと言えば、もしイスラエルにユダヤ人が帰還しなければ、携挙が起こらないからです。ディスペンセーショナリズムのクリスチャンは、自分たちが死を見ることなく天に挙げられることを夢見ています。

この矛盾した行動から分かることは、「彼らは、本当にユダヤ人を愛し、尊敬しているのではなく、ただ自分たちの不死を願っているだけだ」ということです。

私は、このような神学は、偽善の神学であると思います。

(2)

「彼らのある人は言っております、『平和主義や活動は無意味である。むしろ世界で悲劇が起きれば起きるほどワクワクする。それはキリストの再臨が近いことを覚えるからだ』と。そこには自分とは無関係に預言が実現する過程を見ているといった推理小説を読んでいるような姿勢があります。例の『レフトビハインド』の異常なヒットがその顕著な現れです。『キリストの再臨』ことすべての問題の特効薬であり、それ以外の人間の努力は無意味であるとする傾向、すなわち神から委ねられた人の責任を放棄している姿勢が見て取れます。」というご指摘は、まことに鋭い洞察だと思います。

私が、ディスペンセーショナリズムをサタンの誘惑と感じるのはこの点です。

ディスペンセーショナリズムの魅力は、「無責任でいてもいい」ということにあると思います。
「イスラエルのユダヤ人が3分の1虐殺されようと、世界で核戦争が起きようと、携挙があるから自分に被害は及ばない」という、傍観者的心理があります。

これは、仕事を通じて社会貢献しようとか、科学や医療の発達のために努力しているノンクリスチャンよりも程度が低い。

だから、私は、今のディスペンセーショナリズムに支配された教会に誰かを誘おうとは思わないのです。こんなのがクリスチャンなら、クリスチャンにさせたくないと考えるほどです。もちろん、ディスペンセーショナリズムの教会にもすばらしいクリスチャンはいます。しかし、ディスペンセーショナリズムという教えそのものが、人間を堕落させる教えだと思うので、このような教会とは関わりたくないのです。

大学時代に、ディスペンセーショナリズムを信じていた頃、たしかに伝道活動はしますし、「終末を警告しなければ滅んでしまう」と信じて活動していました。しかし、どうも、教会生活が、「現実世界との接点」を欠いているのです。

私において、高校までは、社会人にいたる一つの連続した流れが見えていましたが、教会の活動に熱心に参加した大学時代に、その流れは完全に途切れてしまいました。

教会の中にも健全な考え方をもっている長老が、伝道集会などに熱心に取り組んでいる学生を尻目に、自分の子供には、社会に出た時のために、勉強を熱心にさせて、あまり教会の学生と接触させないようにしている人がいました。当時は、「なんで子供を熱心に伝道させないのだろう」と批判的に見ていましたが、今は、この人は自分の子供に責任を持っていたのだ、と考えています。

ポスト・ミレを信じない教会の牧師で、社会経験がない人は、伝道がすべてだと考えており、そのために、学生に対して、あたかも「出家生活」のようなものを体験させてもいいと考えているような気がします。

なぜこのような考えが出てくるか、と言えば、社会における職業生活を「世俗的なこと」とし、クリスチャンの使命とは無関係と見ており、クリスチャンを「文化を変えるために活動する文化的リーダー」として見ていないからと思います。

もし、牧師が、「地を従えよ」がクリスチャンの基本姿勢であり、積極的に世界を変えるために働くのだと教えていれば、学生をあのような「出家僧」にはしないでしょう。学生に「伝道集会で奉仕しなさい」というよりも、「社会に出るために資格とか取れよ」とか言うでしょう。

私は、伝道集会が悪いとか言うつもりはありません。また、伝道に熱心な学生を批判するつもりもありません。問題は、「社会に対する姿勢」なのです。

社会を「耕すためのフィールド」と見るのと、「放っておいてよい無関係なもの」と見るのとは大きな違いがあります。

プレ・ミレもア・ミレも、「この世界は、もうすぐ終末の破局に至る。だから、そのようなものに関わっても無駄だ。一人でも多くの人を天国に連れていってあげなさい」と教えているので、教会は、不健全なままです。

人間は、社会とかかわり、労働をすることによって健全になるように創造されているのですから、プレ・ミレもア・ミレも、その終末論によって、教会に加わる人々の精神を病気にしているのです。

「平和主義や活動は無意味である。むしろ世界で悲劇が起きれば起きるほどワクワクする。それはキリストの再臨が近いことを覚えるからだ」と言う異常人間を増やさないためにも、教会は、ポスト・ミレを採用すべきです。

 

 

2003年12月25日

 

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