高等批評について

 


> ハレルヤ。

ハレルヤ。

> メールのお返事本当にありがとうございました。とても参考に
> なりました。
>
> しつこいようですが、もう一つだけご質問させていただいても
> よろしいでしょうか?

どうぞ、何度でもご遠慮なく。

>  これも高等批評系の話題だと思うのですが、旧約聖書の主の
> 御名がちがうのは、ヤーウェなる唯一の神だけではなく、創世
> 記は中近東のいろんな神話のよせあつめだからという事はあり
> えない話ですよね?!
>  なにしろ、原本を読んだことも調べた事もないのでそういう
> 疑問をもつ方に太刀打ちできないのです。
> すみませんが、またよろしければ教えてください。

(1)
主の御名が違うのは、神様がご自身の様々な側面を啓示されるためでした。
「エルシャダイ(全能の神)」は全能性を表し、「ヤーウェ(存在する)」や「エフ
エー(私は存在する)」は自存性(存在の根源性)・超越性を表します。
「インマヌエル(神ともにおられる)」は内在性を表します。

(2)
もし旧約聖書が中近東のいろんな神話の寄せ集めであるならば、どうして、それぞれ
の神々は聖書の中に組み入れられた時に、「一貫性」を捨てたのでしょうか?本当に
寄せ集めならば、それぞれの神々の性質を濃厚に残しているはずでしょう。しかし、
聖書の神は一貫して「唯一絶対の全能者、超越にして内在の神」であって、それら中
近東の「多神教の神々」とは似ても似つかぬものです。

(3)
このような読み方は、「聖書を、普通の神話本と同列において研究することができ
る」という前提から出発しているので、間違いなのです。

聖書は信仰の目をもって見なければならない書物なのです。聖書の上に立って、神を
試験管の中に入れることは、「神を試す」ことであり、大きな罪です。

「神を恐れることは知識のはじめなり」と聖書そのものが主張しているのです。聖書
の読者は、まず謙遜を身に付けなければなりません。そして、聖書の下にたって、聖
書を見上げながら読まなければ理解できないのです。

それに対して不信仰な人々は、「わたしは、信仰なんてないから、そんな読み方はし
たくないですね。普通の書物と同じように科学的なメスを入れるつもりです」と言う
かもしれませんが、それは、まったくおかしな読み方なのです。

なぜならば、もし人間を創造し、人間を超える存在がいて、その存在が、人間に対し
て上から教えを垂れているならば、人間の側は、ただひたすらに「教えを受ける」だ
けであって、「教えを選別する」権利はないはずです。

その存在は、人間を創造した主権者なのですから、人間に対して命令を下し、教えを
「垂れる」権利があります。人間は、それに対して好き嫌いを言う権利はありませ
ん。

「自分を創造し、自分に対して全的権威を持つ者の言葉に対しても、選別が許され
る」と主張するのが高等批評の人々なのです。

これは自己矛盾した行為なのです。

もし、「普通の書物と同様に、科学的なメスを入れたい」ならば、まず聖書を著した
のが創造者なる神ではなく、普通の人間であった、ということを証明しなければなり
ません。しかし、誰もこんなことを証明できないのですから、我々クリスチャンも、
高等批評の人々も、堂堂巡りをし、水掛け論に陥る以外にはありません。

彼らは彼らの宗教「人間は万物の尺度である」に従っており、我々は「神は万物の尺
度である」に従っています。

我々と彼らは、まったく異なる土台と前提に立つ人々であり、話し合いは平行線をた
どります。

そして、彼らの大きな欠陥は、「世界を創造したわけでもない者が、どうして万物の
尺度になれるのか?」ということにあります。

彼らは、自分に対して相応しくない権威を与える自己満足者です。

我々は、創造主に物事の正当な解釈者の称号を与えているので、首尾一貫していま
す。



 

 

2003年11月12日

 

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