聖書に対しては厳密に取り組め

 


聖書を最高権威として読むことができない人々の失敗の原因は、彼らが聖書を「法律」として読むことができないところにある。

彼らは、聖書を単なる「参考書」としか考えていないのである。

法律と参考書の違いは何か?

法律は、破れば刑罰があるが、参考書はそれがない。

聖書ははっきりと、「これを破れば呪われる」と書いてあるので、法律なのだ。

法律である以上、内容を勝手に変えることはできない。どの国の法律でも、自分が勝手に内容に手を加えることができるものはないはずだ。また、勝手に自分の都合のよいように解釈することもできない。自分勝手に法律を解釈しても、国家がそのように解釈しなければ我々は逮捕されてしまうだろう。

たとえば、死後のセカンドチャンスがある、と断言する人も、ないと断言する人も、共通しているのは、「聖書を変更不能な絶対法」と認識していないことだ。

だから、彼らは、「聖書の裏付け」なしに、自分の考えを作り上げるのである。

聖書に対する我々の基本的な姿勢は、聖書を自分の頭上に置いて、それを絶対の基準として仰ぎ見ながら読むということである。自分が聖書の上に立って、聖書自身を批判することなど絶対に許されない。

聖書のどこに対してでも、ハサミやカッターナイフを入れたり、ペンを持って書き足す者は、クリスチャンではなく、神の民でもない。彼は、神を裁く不遜な者である。

もしクリスチャンと呼ばれたいならば、言い過ぎることも、言い足りないことも許されない。

「聖書に対する厳密な取り組みがない人」を本当のクリスチャンと呼ぶことはできない。

 

 

2003年11月25日

 

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