聖書は正しいという前提から出発しよう
>ハレルヤ。たびたびすみません。
ハレルヤ。いえいえ。遠慮なさらずにどうぞ。
>あそこのサイトもう、読むのが面倒だし、あらしもおちついて
>きているみたいで安心しました。(もう多分あんまり見ません)
キリスト教に反対する人は、途中でサタンの霊に入られるので、わけのわからないことを言い始めます。そして、逆上して、やってはならないことや、言ってはならないことを言いはじめます。そうなると、もはや議論ができない状況になりますので、私は、こういった人々を主に委ねます。
>しかし、また一つ質問させて頂いてもよろしいでしょうか?!
どうぞ。
> 新約聖書の著者はヤコブといってもイエス様と一緒にいたヤ
>コブではないとか、あちこち著者が不明だと書いてありました
>。(スヌーピーの聖書物語に)その点では、新約聖書を聖典と
>決めた会議や著者が信頼できるのかという疑問の応えを教えて
>ください。
著者が不明だという考えを彼らは採用したいのです。
自分が信じたいものを主張しているに過ぎません。
聖書の真作性(著者が本当にその書が主張している著者と同一であるかどうか)については、いのちのことば社の新聖書注解の各書の概説のところに、いろんな説を挙げて、聖書が使徒(またはその権威の下にある人)によって書かれたことが説明されていますので、参照されるようお勧めします。
私は、真作性についてはあまり興味がないので、詳しくありません。
どうして興味がないかと言えば、「もし、聖書が使徒や使徒の権威の下にいた仲間によるものでなかったとしたら、聖書の権威はまったくなくなってしまう」ということが明らかだからです。
そして、仮に、聖書に権威がないのであれば、神は2000年の間、その権威でもなんでもない物を我々がありがたがって読むままにし、それによって誤解するままに放置されていたことになるので、神は不誠実だ、ということになります。
神が不誠実ならば、この世界に基準や裁判官は存在しないということになるので、「生きる意味」がなくなります。
結局、人間は、自分の欲望などを追求して死ぬ「ほとんど動物と変わりない者」になってしまいます。
つまり、聖書が絶対の権威でなければ、人生には目的も何もないまったく空しいものであり、教会もただの習慣で通うところで、祈りもなにも冗談になってしまいます。
だから、私は「実存的な理由でも」聖書の真作性に確信を持っています。
信仰に入りたての頃は、まだ考えが不安定なので、信仰的な書物に限って読むことをお勧めします。
信仰に疑いを持たせるものや、自分から確信を奪い、精神的な泥沼に落とすようなものは、すべてサタンから来ます。
サタンは、クリスチャンを絶望させて、自暴自棄にして、罪を犯させ、滅ぼそうとしているので、惑わせるようなことを言う本や人には注意が必要です。
聖書に対しては一切疑いを持つべきではなく、まず「聖書は正しい」という地点から出発すべきです。
もし、サタンが「本当に聖書は正しいのかい?」と尋ねてきても、「その質問には答える必要がない。とにかく聖書は正しいのだ」と怒鳴りつけてやるのです。
イエスさまは、一回も聖書の正しさを証明しようとされませんでした。
サタンが誘惑してきた時に、「聖書にはこのように書いてある」としか言われなかったのです。
「神を恐れることは知識のはじめ」なのです。
まず、聖書をまるごと受け入れて、そこから物を考えるようにしたいものです。
2003年11月27日
ホーム ツイート